〈みるきくしる〉山王祭
Sanno-Sai (Traditional Festival)

|2016.10.04

山王祭、盛大な「下町連合渡御」をご覧あれ!


平成28年6月12日、待ちに待った「下町連合渡御」が開催された。日枝神社の例大祭「山王祭」における、町神輿の一大渡御だ。
江戸時代に端を発し、天下祭・日本三大祭の称を与えられた由緒正しきお祭り。
現代の世、都心でこれだけ賑やかな神輿渡御が見られるのも、地元の努力と苦労の賜物にほかならない─。

石の投げ合い、神輿の落とし合い。本当は仲が悪い? 日本橋と京橋。


─町会で一基一基守られている、町神輿にはどういう変遷があるのですか。

竹内 江戸時代には町々が山車を所有し、日枝神社の例大祭「山王祭」において江戸城に入ることが許され、将軍が上覧したとのことです。明治以降は電線が張り巡らされた都心にあって山車をひけなくなり、町神輿に移行したと聞いています。茅場町や八丁堀、京橋からは昔の祭りの写真が出てきますが、日本橋は空襲などで写真が焼けているので、それ以前の記録がなかなか出てこないんです。神輿も、日本橋で焼け残ったのは檜物町(現八
重洲一丁目)ぐらい。

吉野 昭和21年に日本橋復興祭が行われて、それから徐々に山王祭も復興していくんですよね。

日高 ちなみに京橋は戦争でも神輿が焼けずに残ったところが多く、各町会が大神輿と小神輿を持っていました。戦後は日本橋や京橋、江戸橋、八重洲とどの町会も一基ずつ子ども神輿を持っていました。私が子どものころ、昭和20年代は、今では考えられないくらい子どもがたくさんいて、お祭りに参加していました。担いだ後にもらえるお菓子が狙いだった節はあったけど。私自身が、本格的に担ぐようになったのは大学生になってからです。

関口 私も子ども神輿から担ぎはじめ、中学生になってからは大人神輿を担ぎました。熱中しだしたのは29歳で、家業に携わるようになってからです。

竹内 私は子どものころは、母の実家がある鳥越で神輿を担いでいました。日本橋で神輿を担ぐようになったのは、店を継ぎ、青年部に入った31歳くらいからです。

吉野 うちは祖父も父も祭りが大好きで、家中、店中で盛り上がるので、高校・大学の頃は逆に距離を置いていたんです。大学の後半から祭りにかかわるようになって、鳥越や深川、浅草にも仲間ができて行き来するようなりました。私もガキの頃から子ども神輿にくっついてわいわいやって、お菓子を貰うのが嬉しかったです。子どもはみんなそうだよね。(笑)

関口 自分の町会の子ども神輿が終わっても、「八重洲がまだ担いでいる」と聞けば、そっちへ飛んでいくという具合に。「お菓子がもらえるぞー」と。

竹内 平成になってほどなく、子どもの数が少なくて担ぎ手の取り合いになってしまうから、隣り合う町会などが合同でやるようになりました。

吉野 京橋昭和小学校と、日本橋城東小学校が合併して、中央区立城東小学校になったのが昭和37年。今では子どもたちも、自分の町会というより、仲がいい友達同士で神輿を担ぎたがることも影響しています。時代は変わりましたよね。親父の世代なんて、「日本橋と京橋は、八重洲通りを挟んで、さんざんやり合った」って言いますもん。「八重洲通りは広いから、間を埋めるのに石の投げっこをした」って。(笑)

日高 70歳以上の世代ですね。

吉野 それ以前は、京橋昭和小学校、日本橋城東小学校と、隣の地域同士でライバル意識があったんでしょう。僕らの世代はもう、そういう意識はなかったけれど。

日高 お祭りの時だけとは思うけども(笑)。私が中学生の頃だから昭和30年代半ばですが、京橋の神輿が勢いづいて八重洲通りを越えて日本橋に行っちゃって、日本橋の鳶頭たちに囲まれて潰されたということがありました(笑)。日本橋と京橋は鳶頭が違うので、本来は先方の鳶頭とまちの方々に渡りをつけなくちゃいけないのに、それをしなかった。

─このあたりは、江戸町火消しにルーツをもつ「鳶頭」の存在が、今も息づいているんですね。

「日本橋復興祭」の様子(昭和21年撮影/提供・鹿島靖幸氏)。あたりで唯一焼け残った檜物町町会(現八重洲一丁目)の神輿を、日本橋六之部連合町会(日本橋一~三丁目と八重洲一丁目の町会)がみなで担いだ。日本橋橋詰に設けられた、神輿を修める御仮屋(地元の鳶頭が建造。この技も貴重なもの)の大きさからも戦後復興に向けた気合のほどがうかがえる。

京橋一丁目東・西町会の子どもたち。昭和27年ごろ、GHQによって禁止されていた町会活動が復活し、町神輿も再開。前年に新調された小神輿や山車を前に、大勢の子どもたちが並ぶ(昭和27年ごろ撮影)

神輿を通じて、垣根を越えよう!画期的な「下町連合渡御」。


─そんな状況にも関わらず、山王祭で、エリアを越えて神輿を担ぐ「下町連合渡御」を行うことになったきっかけとは。

日高 平成12年ごろでしょうか。日本橋の青年部(日八会)から京橋に「会合に参加しませんか」との打診がありました。それで私と、京橋一丁目西町会の「いろは鮨」の高野さんの二人で参加しました。「宵宮(本祭の前夜に行う町神輿の渡御)をやっているので、日本橋と京橋と、一緒にやりませんか」という話が出たんです。そこで私たちはつい、京橋の他町会に承諾も得ないで「いいですね、やりましょう」と言ってしまった。あとで話したら、京橋二・三丁目から「勝手に決めて、怒っている」と言われて……。

関口 そうそう、覚えています。

吉野 でも最終的には、それぞれの鳶頭に声をかけて手打ちをしてもらうなど、うちの父などを中心に、親父世代が根回ししてくれたんです。

竹内 あの頃は、日本橋(江戸町火消しろ組)の組頭で、江戸消防記念会会長まで務めていた鳶頭・鹿島靖幸さん(平成26年没)の力が絶大だったからね。あの人が「やろう」と言ってくれたことも大きかった。そうして平成12年、最初の宵宮のときは、日本橋三丁目の神輿が京橋へ迎えに行き、京橋三丁目の神輿と一緒に日本橋まで戻って、宵宮をやったんですよね。14年、2回目の時は、京橋一丁目と京橋二丁目の神輿も一緒にくるようになって。

関口 その時、「巴」をやりましたね。

一同 すごかったね。

日高 雨が降っててね。

─「巴」とは?

吉野 神輿数台が、花棒を先頭にして放射線状に集まること。

竹内 中央通りと八重洲通りの交差点に、日本橋・京橋の神輿五基が集まったんだよね。あれ以来やっていない……というか、できないですよね。

関口 警察には事前に、「交通安全祈願をするので」と、半ば事を柔らかく説明していたんだけど、実際に巴を見て、警察は大激怒(笑)。あの後、始末書を出したり、たいへんだったんですよ。

竹内 いろいろありましたが、平成16年の3回目からは、京橋の神輿が全基参加してくれるようになりました。そして18年、茅場町も加わって、中央通りを京橋から日本橋まで町神輿が練り歩く「下町連合渡御」が始まったんです。平成28年で、6回目を数えます。今や八丁堀も加わって、20基弱もの神輿が渡御する様は、圧巻です。

─やはり「中央通り」を渡御する醍醐味って、大きいですか。

日高 大きいですよ。京橋の神輿が、日本橋の橋上で神輿を差せることも、とても興奮します。なんといっても、江戸の東海道の始発点ですから。

竹内 先ほど警察の話も出ましたが、中央通りのような大通りを全面通行止めにする許可をもらうのも、大変なことなんです。日頃の信頼関係が無ければ、絶対に実現しないことです。

─ちなみに「下町連合渡御」について、抵抗はありませんでしたか。

日高 それほどありませんでした。もともと私は、「町神輿は町会を回るのが主である」という考えだったんです。しかし再開発が進む中、「何か活性化できる事をしたほうがいい。祭りだって、華やかなほうがいい」との思いに変わりました。だからこそ、あの時、宵宮に参加させてもらったんです。

吉野 上の世代からは「町会を回ることを第一に考えろ」と釘をさされるけれど、八重洲通りは逆行できないし、一方通行も多いし、その上で、町会をくまなく回る順路を考えるのは、この地域ではものすごく大変なんです。

朝9時、日枝神社摂社(中央区茅場町1-6-16)の「宮出し」から下町連合渡御はスタートする(撮影・大八木宏武)

中央通りを京橋から日本橋まで渡御する「下町連合渡御」の神輿。日本橋・京橋・茅場町・八丁堀の神輿が総勢15基、練り歩く。全面通行止めにして、道いっぱいに神輿や担ぎ手が広がる様は壮大だ(撮影:佐藤公治)

場所の確保、担ぎ手の減少、青年部の不足をどう解消するか。


─いずれも、都会ならではの悩みですね。近年は、神輿を飾る御仮屋を作る場所も少なくなっているのでは。

日高 少なくなっています。どこも表通り(中央通り)に作りたがるでしょう。場所を確保するだけでも大変です。

竹内 中央通りを御仮屋で一色にしたいという気持ちもあるのでしょうが、日本橋二丁目通町会なんかは、まち中に御仮屋がなくなってしまう寂しさもあるので、あえて、表通りから中に入ったさくら通り沿いに建てています。

吉野 「中」(路地)もいいよね。

関口 担ぐときも、表通りから中に神輿が入っていくと、音が反響するでしょう。担ぎ手はノッてくるんですよね。

吉野 町内に担ぎ手がいないことも、悩みです。親父の代は子どもがたくさんいたから、「子ども神輿が大人神輿を先導するもんだ」と言うんだけど、今は数がいないのでそれができない。そうやって侃々諤々のやりとりをするんだけど、でも親父にしても僕にしても、子どもたちに祭りを続けてもらいたい気持ちは同じ。

竹内 幸いにも、このエリアはさまざまな会社が集積していて、半纏を着て神輿を担いでくれたり、協賛金を出してくれたりと、いろいろな形で協力してくれます。そうした力を活かさないと、継続は難しい。そもそも、下町連合を作った目的の一つに、「祭りの魅力を高めて、担ぎ手を増やす」ということがあるんです。

─日本橋二丁目通町会は、山王祭の前に「半纏合わせ」を行っていることも、珍しい取り組みですね。

竹内 町会内の祭礼組織に所属する人数だけでは、もちろん神輿はあがりません。そこで担ぎ手として大きいのが、他の地域からお手伝いにきてくれる「神輿会」の力なんです。これは山王祭だけでなく、東京の他のお祭りでも同じ状況です。うちの町会は、日曜は町会の半纏ですが、金土はそれぞれの会の半纏を着て担いでもらいます。なので事前に「半纏合わせ」という会を催して互いの半纏を紹介し合います。お祭り当日、ヒートアップした現場に不審者が入り込まないよう、防犯の意味も含んでいるんです。

日高 うちの町会は、神輿会の方々には、町会の半纏を着てもらっています。そういう統率の方法もあります。

─ちなみに、「下町連合渡御」を行うことで、どのような利点がありましたか。

吉野 確実に、日本橋・京橋・茅場町・八丁堀の交流は増えました。「地元」が広がった感じがあります。

日高 挨拶できる人が増えたのがいいですよね。ほかの町会に行って、「こんにちは」と言えるだけでもいい。

吉野 それが一番ですね、まちは。

関口 ほかの町会の組織やしきたりにも触れる機会ができて、自分たちの町会を見直す良い刺激にもなります。

竹内 子ども向けのイベントや、盆踊りなど互いに顔を出したり、「ノミュニケーション」が深まる中で、自然と会話が出ます。祭りは、みんながまとまるきっかけですよね。利害関係なく、みんなが集まれる。

日本橋に到着すると、橋上で、高々と神輿を天に差す(撮影:佐藤公治)

いくつかの神輿が、重文建築の日本橋髙島屋へ、表敬訪問する(撮影:大八木宏武)

2020年に向けて、見どころいっぱいの「山王祭」。


─2020年の東京オリンピック・パラリンピックに向けて、山王祭をどう盛り上げていくのでしょう。

竹内 今年は、山王祭を将軍に上覧いただいてから400年の節目に当ります。そこで今年初の取り組みとして、千葉県佐倉市から一台の山車が里帰りして渡御を行うんです。江戸時代に将軍が上覧した日本橋の山車を五基ほど、明治十二、三年ごろに千葉県佐倉市が購入し、以来「徳川将軍の上覧に供した数少ない山車」として誇りに思い、保存会を作って大切に守り続けてくれたんです。なお、平成30(2018)年は、江戸が東京に変わり、天皇が江戸城に入城されて150年目です。節目節目で訴求しながら、オリンピックに向けて山王祭をもっと賑わせていきたい。
江戸東京博物館館長の竹内誠さんが、東京オリンピックでは、神田や深川の神輿を集めて中央通りで「大天下祭」を開催したらいいと提案されています。実現の方向で動けるようにしたいです。

吉野 いいですね。でしゃばるつもりはないけれど、「大天下祭」の中心でありたいよね。オリンピックの後も山王祭は続くので、オリンピックを起爆剤に、われわれが継承する「山王祭」のすごさを知ってほしいです。

2016年下町連合渡御に、明治12年に千葉県佐倉市横町に移譲された、江戸の上槇町(現八重洲一丁目)の山車「石橋(しゃっきょう)」が里帰り! 江戸城の門をくぐるために上下した人形が、現代では信号や電線をくぐる際に上下する様子が見られるかも

東京人2016年7月増刊より転載

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