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〈みるきくしる〉山王祭
Sanno-Sai (Traditional Festival)

|2018.06.01

鳶頭の腕の見せどころ!御仮屋造りに注目。


御仮屋は祭りの最中に神輿を飾るための仮の建造物で、神饌を備える神酒所とセットで建てられることが多い。町会や旦那衆の依頼で地元の鳶がその設営を請け負う。仲間内では〝御仮屋の出来で鳶頭の力量がわかる〟ともいわれ、鳶頭たちの重要なお祭り仕事の一つだ。御仮屋のある風景は、祭りが盛んでまちに神輿があり、人々がそれを大切に受け継いでいること、そしてまちと鳶頭との信頼関係が生きていることの象徴だと言える。

材料は丸太と竹と葦簀。設計図は、ない。丸太で骨格を組み、竹と葦簀で形を整えて見栄えよく仕上げる工程は鳶頭が体で覚えている。「丸太や竹の太さ、長さ、しなり具合はまちまち。一本一本の個性を目見当で見極めて、最も美しい仕上がりになるように適材適所に用いる――。御仮屋造りは経験と勘がものをいう仕事です」と、山王祭の氏子域を預かる第一区の鳶頭たちは口をそろえる。

左から第一区九番組(茅場町・八丁堀エリア)、江戸町火消し百組副組頭の山本吉則さん。第一区三番組(日本橋エリア)、江戸町火消しろ組組頭の鹿島彰さん。第一区四番組(京橋エリア)、江戸町火消しせ組組頭の武藤幸彦さん。第一区九番組、百組纒持の鏡裕允さん。(撮影:泉大悟)

神田の鳶頭と互いに協力し、指導を受けてきた。

かつて御仮屋造りは、組の中で鳶頭から若手へと代々受け継がれてきた。
そのため山王祭と神田祭で(あるいはどの組の鳶頭の手によるものかで)、丸太の組み方も葦簀の張り方も異なる独自性の強いものだった。しかし時代とともに鳶頭の人数が減った。また山王祭と神田祭は隔年でそれぞれ本祭が開催される。「若手時分、それこそ十代のころから、山王祭が陰祭のときは、神田祭の御仮屋設置を手伝う形で、神田の鳶頭から設営を学んでいった」(鹿島彰さん)という。

若手の手は休むことなく、常に何かしら動いている。竹をおがくずや荒縄で洗う、棕櫚縄を使いやすい長さごとに玉に丸める、バンセン(針金)を叩いて伸ばすといった下準備をしながら、仕事の段取りや要領を覚えていった。
「1年経つと忘れてしまう。また造りながら思い出す。その繰り返しで20年は経験しないと一人前にはなれない」(山本吉則さん)。材料はシンプルだが、道具は用途別に何種類も使い分ける。「手順を頭に入れて、先を読めなければ下働きは務まらない。上にいる親方が次に必要な道具を選んで、下から手際よく渡すのが大事な仕事だった」(武藤幸彦さん)。道具持ちの鏡裕允さんは、今まさに修業中だ。「神田祭では三つの組に手伝いに行きます。鳶頭によって縄の掛け方一つにしても微妙に違う。すべてが勉強です」と話す。

鳶たちはこうして身につけた基本を、経験を積みながら自分なりに磨き上げ、地元の特性を生かし、町会・旦那衆の意向を尊重しつつ御仮屋造りを行っている。


見どころは、屋根。

都心の祭りでは御仮屋にもさまざまな制約が強いられる。設営場所は交通量や人通りの多い道路、駐車場の一画、ビルの敷地内など狭くて変則的であることが多く、日常生活に差し支えないよう工期はできるだけ短期が望ましい。与えられた条件の中で、いかにスマートに、見た目も美しく仕上げるかが鳶頭の腕の見せ所だ。造りやすく材料に無駄の出ない「間口十一尺」(巾六尺=約180㎝の葦簀を2枚つなげて、重なり部分を一尺分設けた寸法)を基本に、設置場所に合わせた大きさに加減する。

鳶頭たちが最も力を入れるポイントは、屋根だ。勾配の角度や、丸太や竹の組み方を工夫することで、屋根を大きく形よく見せることができ、御仮屋全体が重厚な雰囲気になるという。入母屋の場合、角度の基本は五寸勾配(一尺の長さに対して五寸上がる勾配)だが、大通りに面していて遠くからの眺めを優先するときはゆるめに、狭い路地に立てて間近で見上げる場合はきつめにすると、見栄えがよくなる。ときには「例年通り」や「予算内」などの言葉は脇に置いて、欄間を松の葉の模様に編んでみたり、神酒所に白砂を蒔いて植木を設えてみたりなど、遊び心で凝ったりもする。

「与えられた条件の中、できる限りの工夫で御仮屋を造り上げる。祭り(ハレ)が終わった翌朝には早急に片づけて祭りの名残を跡形もなく消し去り、まちを早急に日常(ケ)に戻す。それが私たちの美学です」と鳶頭たちは言う。同じ御仮屋は二度と造れないし、造らない。今年の祭りでは是非、神輿だけでなく御仮屋にも注目したい。

左:日本橋三丁目町会の御仮屋。DIC株式会社本社ビル前に造られた。片流(かたながれ)の屋根が美しい。都心で御仮屋の場所が確保できるのも、企業などの理解と協力があってこそ。

右:茅場町一丁目町会の御仮屋。東京証券会館敷地内に造られた。手間のかかる入母屋造り。企業などの応援もあって、立派な御仮屋が完成。

神幸祭や、下町連合渡御で鳶頭が唄う「木遣り」って?


木遣りはもともと鳶たちの作業唄だった。「たこ」という導具を突き落として地固めをする「地形(じぎよう)」と呼ばれる作業の際に、複数の人間の力を一つにまとめるための掛け声や合図として唄ったのが江戸木遣りのルーツだと言われる。やがて労働の機械化に伴い、木遣りも唄として聴かせるご祝儀の木遣りへと変わっていった。現在では祭礼、婚礼、上棟式、出初め式などおめでたい席で唄われることが多い。

昭和31年には「江戸の鳶木遣」110曲が東京都の無形文化財に指定された。一般社団法人江戸消防記念会は、「江戸町火消し」の文化として、纏、梯子乗り、半纏などとともに木遣りの保存継承を担い、各区で鳶頭の木遣り師による稽古が行われている。

木遣りには音程を記した楽譜がない。昔は唄い方のお手本が録音・保存されることもなく、継承はもっぱら木遣り師による口伝で行われてきた。したがって師の音が多少ずれていたり、〝エー〟が〝イー〟に聞こえたりすると、それが正しい木遣りとして伝わっていく。同じ曲でも各区で音程や節回しに個性があるのも、木遣りの面白さだといえよう。

もっともよく唄われる有名な木遣りは、祝儀・不祝儀を問わず最初の一声として唄われる「真鶴」だ。他には「田歌」「手古」「さらば」「東金」「軽井沢」などが一般的で祭礼でもよく使われる。山王祭では氏子域を練り歩く神幸祭の行列を鳶頭の木遣りが先導し、御霊をのせた御鳳輦の町内引き渡しの際には各組の鳶頭が一節を唄い手締めを行う。下町連合渡御でも中央通り出発時のセレモニーなどで地元第一区の鳶頭たちが恒例の木遣りを披露する。

山王祭は、江戸時代、城の中に入ることを神田祭と共に特別に許された天下祭の一つだ。その氏子域を担当する第一区の鳶たちが代々大事に伝承している木遣りの一つに「城内(じょうない)」がある。その名のとおり、将軍家に関わる江戸城の中の仕事にのみ許された特別な木遣りだ。

「このような品格のある木遣りを受け継いでいることは、お江戸の中心を預かる我々鳶の誇りでもあります」(第一区九番組副組頭、木遣り師・山本吉則さん)。作業唄ではなくなった今も、木遣りは鳶たちの心をまとめあげている。



祝儀の席で唄われることの多い「田歌」の意味(一部)

君が為め 我が田を均せ
君が為め 畦均せ
我が田と思い 君が田をならせ

左:木遣りの教本。木遣り師が一節唄い(仕手)、側受(がわうけ)としてその他鳶頭たちが声を出す。

右:第一区では月4回、木遣り師の山本吉則さんを中心に「てこ棒」を用いた伝統的な方法で稽古が行われる。車座になり、12節から成る「棒運び」(鳶たちが紐をひっぱりながら大きな柱を持ち上げて落とす「地固め作業」の様子を、棒を用いて再現している)によって、メトロノームのように調子を合わせ、間をとりながら唄う。唄によって大間、中間などテンポが異なる。

年初めの「大盃の儀」

「大盃の儀」は江戸町火消しの時代から続く伝統的な正月行事。一年間の忠誠を誓う意味合いを持つ。第一区三番組(江戸町火消し「ろ組」)では戦後の一時期途絶えていたが、10年ほど前に先代組頭の故鹿島靖幸さんが「ろ組睦」を結成したのを機に復活。2018年は旦那衆、地元町会の役員を来賓に招き、1月末に日枝神社摂社で行われた。上座から下座へ大盃を回し、ご祝儀の木遣り、中締め。そして下座から上座へと大盃を回し、組頭が最後のひと含みを受けて締める。「一年間まちのために尽くすことを誓う、気の引き締まる儀式です」(組頭・鹿島彰さん)


※下町連合発行、月刊東京人制作「山王祭」2018年より転載

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