〈むかしみらい〉 地元企業物語
Campany's story in our town

|2016.09.27

Vol.8 日本料理 日本橋ゆかり

三代続いて宮内庁にお出入り。祖父から息子、孫へとつなぐ包丁技。


昭和10(1935)年、日本橋で開業した日本料理店「日本橋ゆかり」。店内には、菊の御紋がついた三枚の賞状が掲げられている。最も古い昭和34(1959)年のものは、宮内庁主厨長の秋山徳蔵さんから初代野永喜三郎さんに授けられたもので、皇太子殿下(今上天皇)御成婚式典の賜饌しせん調理で奉仕したことにより賞された。二枚目は二代目野永喜一郎さんに向けて、平成2(1990)年の天皇即位の礼並嘗祭へのご奉仕に対して、三枚目は三代目の野永喜三夫さんに向けて、平成5(1993)年の皇太子徳仁親王殿下御成婚式典の賜饌調理での奉仕に対して贈られたものである。

三枚の賞状が物語るように、「日本橋ゆかり」は親子三代にわたり宮内庁出入りを許された名門である。初代が萬屋調理会を通して宮内庁でご奉仕をしていた縁で、現在も二代目の喜一郎さん、三代目喜三夫さんはそろって続けている。
新嘗祭にいなめさいや春と秋の園遊会、そして年末には毎年ご奉仕をさせていただきます。宮内庁のしきたりどおりに包丁調理のお手伝いをするのです。なかでも薪を燃やし続ける庭火と蝋燭の灯りだけで行われる『夕の儀』および『暁の儀』は神々しく静粛にみち、何ともいえずいいものです」
そう話す喜一郎さんは、十年以上ご奉仕に行っているという。

高級料亭からカウンター割烹へ転換。


「日本橋ゆかり」は、初代が妻と2人で10坪の小料理屋からはじめて大きくしていった店だ。初代は昭和26(1951)年に今の場所に店を移転し、20名ほどの内芸者を抱える高級料亭で自ら板長を務め、店を大きく発展させていった。二代目の喜一郎さんは、大阪の割烹や丹下健三が手がけた熱海のホテルなどで修業を積む。店に戻ると、これからは料理人がお客様に向き合う時代だと父に提案し、カウンター割烹というスタイルに転換した。昭和40年代のことで、時代の先駆けだった。

喜一郎さんは、江戸東京野菜の普及にも力を注ぐ。江戸の伝統野菜に興味を持った喜一郎さんが、平成元(1989)年から江戸東京野菜の復活に取り組んできた大竹道茂さんと出会ったことがきっかけとなり、21(2009)年、「にほんばし江戸東京野菜プロジェクト」が誕生。日本橋の二十数店舗の飲食店が自ら江戸東京野菜の栽培に取り組んでいる。プロジェクトは昨年で第7弾となり、喜一郎さんも店の屋上で、寺島ナスや金マクワウリなどを栽培した。
「手を使うこと、育てることが好き」という喜一郎さんは、若い頃から油絵を描き、陶芸にも熱中している。どちらも一流の腕前で、鎌倉春秋窯や相模湖国釉舎の窯で焼いた器は、店でも使用する。ニューヨークのギャラリーで展示されたこともある。
「自分でつくった器にどんな料理をのせるのか考えるのが楽しくてしかたない」と、喜一郎さんは頬を緩める。


日本橋と人形町の旦那衆や女将衆が芸を披露する「日本橋くらま会」でも長年活躍する。
「この辺りは花柳界だったので、うちの周りにも師匠がたくさんいたんです。親父は新内をやっていて、私は小唄。若い世代にも参加してほしい」
旦那衆や女将衆の嗜みとしての芸事や祭り、もちろん本業についても次の世代がきちんと継いでいる老舗が多いのが日本橋のすばらしいところ。「日本橋ゆかり」然りである。

若主人の喜三夫さんは、店を継ぐようにとは言われたことはないものの、幼い頃から進んで厨房に入った。京都の「菊乃井」で修業をし、江戸の老舗の味に新風を吹き込んだ。そして、ニューヨークのメトロポリタン美術館で懐石料理をつくる、「イタリア・ミラノ万博2015」で日本の代表として参加するなど、今や国内外で注目を浴びる。

喜一郎さんの奥さまは大女将として、喜三夫さんの奥さまは若女将として店に立つ。
「女将はさすが、お客の顔をすぐ覚えて、座敷を気持ちよく運んでくれる。頭が下がります。包丁を離しちゃいけないというのが親父が残してくれた家訓。これからも家族全員で店に立ち、料理とおもてなしでお客様に喜んでいただきたい」

日本橋ゆかり
住所:中央区日本橋3-2-14
TEL: 03-3271-3436
営業時間: 11時30分〜14時(LO13時30分)、17時〜22時(LO21時30分) 
定休日: 日曜・祝日
WEBサイト: http://nihonbashi-yukari.com/


TEXT:金丸裕子、 PHOTOGRAPH:渡邉茂樹
東京人2016年7月増刊より転載

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