平成28年6月10日(金) 斎行
神幸祭とは「山王祭」最大の盛儀で、各年で斎行されます。御鳳輦二基・宮神輿一基・山車三基が、300mもの御列次を組み、総代役員や氏子青年に供奉されながら、都心の氏子地域を、丸一日かけて巡幸します。
なお神幸祭は江戸時代に始まりますが、現在の様式(御鳳輦が王朝装束に威儀を正した氏子崇敬者を従える)になったのは、明治15(1882)年の宮社列格から。
1.《10時30分ごろ》 江戸城内への入り口だった、半蔵門前。
江戸時代、山王祭の山車行列が半蔵門から江戸城に練り込み、吹上の上覧所で将軍の上覧拝礼をうけていました。歌川
広重による「名所江戸百景 糀町一丁目山王祭ねり込」には、山王祭の山車行列が桜田濠より奥の土橋を渡り、半蔵門にまさに入っていこうという瞬間が描かれています。現在は半蔵門から皇居内に入ることはありませんが、緑がいっぱいに広がる内濠の堤を背景に、華麗な行列が進む様子は、当時を彷彿させます。
2.《10時40分ごろ》 駐輦祭 「元山王」の地、国立劇場。
二代将軍秀忠の時、日枝神社は江戸城内から城外に移転され、広く一般庶民も参拝できるようになりました。その際の移転先が、千代田区 隼 町 にある国立劇場付近です。その後、明暦3(1657)年の大火で社殿が炎上し、現在の永田町の地に移りました。以来、国立劇場あたりは、元山王と呼ばれてきました。今もここで行列を止め、祝詞と巫女による剣の舞が奉奏される「駐輦祭」が行われます。神社の歴史を辿る、意義深い場所なので、ぜひ足を運んでみて下さい。
3.内堀通り。 【view spot!】
このあたりは信号も交差点もありません。そのため皇居を背景に、300mに及ぶ神幸祭の列次を、途切れることなく眺めることができます。
4.《11時50分ごろ》 駐輦祭、神符献上 皇居内に入れる、唯一のお祭り。
皇居坂下門での駐輦祭と神符献上 は、神幸祭のクライマックスのひとつです。坂下門前で駐輦祭を行う間に、宮司と役員が宮内庁にお札を献上する「神符献上」があります。こうして現在、皇居の中に入るお祭りは山王祭が唯一です。江戸時代、城内で将軍の上覧拝礼をうけていた事、また皇城の鎮である歴史があるからこそできることです。坂下門前の広場に三基の鳳輦と神輿が神々しく並び、時代衣裳の人々が従う姿は感動的です。
5.行幸通り。
皇居から東京駅方面へ向かう神幸祭の列の、華やかなビュースポットです。
5.行幸通り 【view spot!】
皇居から東京駅方面へ向かう神幸祭の列の、華やかなビュースポットです。
6.《13時25分ごろ》 日枝神社 摂社 御旅所で、休憩。
天正年間(1573-92年)、日枝神社の祭礼のときに八丁堀の北島祓所の御旅所まで神輿が船で神幸したことを起源とし、寛永年間(1624-43年)に神幸祭の際の「御旅所」に定められました。明治10(1877)年、日枝神社と改称。大正4(1915)年には、本社の日枝神社が官幣大社に昇格したのに伴い、本社の境外摂社とされました。ちなみに「御旅所」は、神輿宿とも言い、神輿が神幸祭で氏子域を巡幸する際の〝奉安所〞です。現在も神幸祭で立ち寄ります。
7.《14時30分ごろ》 江戸東京の繁華街、中央通り。
江戸時代、日本橋を起点に京都まで続く東海道沿いは、大店が並び繁盛しました。日本橋から新橋まで、現・中央通りと言われる東京の繁華街を神幸祭の列が巡幸できるようになったのは、平成20(2008)年のこと。都市化が著しいまちにあって、お祭りを続け、繁栄させることは大変なことなのです。
8.《16時15分ごろ》江戸時代は山車のスタート地点だった、内幸町。
帝国ホテル近くには、江戸時代、山下御門がありました。山王祭の山車はここに集合して、巡幸をスタートしたと言います。その帝国ホテルは明治23(1890)年、海外の来賓を迎える民間の迎賓館として開業しました。向いの日比谷公園も、日本初の西洋近代公園として明治36(1903)年に開園しました。帝国ホテルは高層ビルとなりましたが、文明開化を象徴する施設の前での神幸祭見学は意義深いものです。このあたりは巡幸の終盤ルートで観客も多くはありません。ぜひ声援を送ってください。
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町内から町内へ、列の引き渡し。
神幸祭では、各域内を氏子町会が奉仕や警護にあたります。域の境目では、町会役員同士の引き渡しの儀式を見ることができます。その様子からは氏子総出で神幸をお迎えしているという雰囲気が伝わります。
※下町連合発行、月刊東京人制作「山王祭」2016年より転載