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〈みるきくしる〉山王祭
Sanno-Sai (Traditional Festival)

|2016.04.23

日本三大祭りの冠を誇る「山王祭」とは

江戸っ子の「絆」を深める場

「江戸風俗十二ヶ月之内 六月 山王祭」 (筆・楊洲周昇 / 所蔵・日枝神社)

大江戸一の祭りといえば、天下祭と呼ばれ、江戸城まで入ることを許され、将軍さまも行列を見物された山王祭と神田祭でした。この二つの祭りは、幕府も資金を援助したため「御用祭」とも呼ばれています。どちらも競い合うように年々趣向が華やかになり、派手になりすぎて隔年で行うようになりました。「神輿深川、山車神田、だだっ広いが山王さま」と唄われるように、氏子域は日本橋、京橋、銀座、八丁堀、茅場町から、山の手は九段、番町、麴町、平河と江戸一番の広さ。それは現在もほぼ変わっていません。そして、江戸時代と同じように氏神様のお祭りを続けるという、氏子たちの気持も変わることはありません。

戦時中から戦後、アメリカの占領下にあった昭和二十七年まで、お祭りは許可されませんでした。お祭りができないのは、何ともつらいものです。お祭りは理屈ではなく、日本人の気持ちの中に自然に伝わってきたものではないでしょうか。今度の震災以降、絆ということが言われていますが、それをずっと大事にして、子どもや孫にもお祭りを大切に思い、楽しむ心を伝えていきたいものです。(談・日枝神社宮司 宮西惟道さん)

江戸城・皇城の鎮守。日枝神社

日枝神社社殿(所蔵・日枝神社)/千代田区永田町2-10-5

日枝神社は、江戸城と深い関わりを持っています。平安末期から鎌倉時代にかけて、武蔵国で大きな勢力を持っていた秩父平氏の一門、秩父重継(のちに江戸氏と改姓)は、江戸に進出して江戸城を築き、本丸の高台に館を開きました。そこに川越から山王宮を勧請したのが日枝神社の始まりです。室町期の文明年間(一四六九〜八六)、江戸氏の館があった場所に江戸城を築城した太田道灌は、川越山王社を守護神として再勧請(分霊を請じ迎えてまつる)しました。天正十八(一五九〇)年に徳川家康が江戸城に入城すると、城内の紅葉山に新社殿を造営しています。「德川歴朝の産神(生まれた土地の守り神)」として、また江戸市民からは「江戸郷の総産神」として崇敬されました。

二代将軍秀忠の時代に、江戸城の拡張に伴って半蔵門の外、現在の国立劇場付近に遷座(移ること)します(元山王)。しかし、明暦の大火のあと、赤坂の溜池を望む景勝の地・星ヶ岡に遷座し、現在に至っています。御祭神である大山咋神は、比叡山にご鎮座し、皇室から一般まで広く崇敬されています。古くから「山王社」「江戸山王大権現」などと称されてきましたが、慶応四(明治元)年以来、日枝神社の称号を用いています。大正天皇御即位の当日、氏子区域内に誕生された故をもって官幣大社に昇格。終戦とともに社格を廃せられましたが、今も変わることなく都民の尊信を集めています。

神幸祭の御旅所。摂社 日枝神社

摂社 日枝神社/中央区日本橋茅場町1-6-16

摂社 日枝神社は、江戸氏により日枝神社が川越から勧請されるとき、隅田川の河口の茅場町に着御した地にあります。天正年間(一五七三~九 二)より、日枝神社の祭礼のとき、八丁堀の北島祓所の御旅所まで神輿が船で神幸したことを起源とし、寛永年間(一 六二四〜四三)に神幸祭の際の「御旅所」に定められました。「御旅所」は、神輿宿とも言い、神輿が神幸祭で広い氏子域を巡幸する際、途中休憩するための、仮の〝奉安所〟です。江戸時代、神幸祭の折には、本社より三基の御輿が出て半蔵門より江戸城内に入り、将軍さまの親拝・奉幣ののち、氏子各町を巡幸して茅場町御旅所に至り、神輿上神事を営んで帰輿しました。

当時の境内は一三〇〇坪余の広さで、山王宮と山王権現の小祠二宇と天満宮があり、さらに薬師堂をはじめ地蔵堂や閻魔堂も並んでいました。毎月の薬師堂の縁日や勧進相撲が行われる日は大変な賑わいだったといいます。明治六年の神仏分離令で薬師堂は敷地外へ分離され、大正四年に「摂社 日枝神社」となりました。摂社日枝神社の境内には、今も富士浅間神社があり、江戸庶民の間で富士信仰が盛んであったことをしのばせています。

日本三大祭り、江戸三大祭りの冠を誇る「山王祭」

「江戸名所図会」より。「六月十五日山王祭」と題し麴町一丁目の豪華な作り物が描かれる。山王社の使いと信じられていた猿が金色の烏帽子を被り、御幣を持っている。山車の周りは錦繍で包み、華麗な様が伺える。

太田道灌が川越山王社を江戸城の守護神として再勧請したのは、文明十(一四七八)年六月。以来、五百年以上にわたり、毎年六月になると山王祭が行われています。三代将軍家光のころより、山車や神輿の行列が江戸城内に入ることを許され、以来将軍が上覧する「天下祭り」として盛大を極めました。京都の祇園祭り、大坂の天満祭りとともに、日本三大祭りの一つにも数えられています。

五代将軍綱吉のころ、倹約令の先触れといわれる天和元(一六八一)年のお達しにより、神田祭と交互に隔年で本祭・陰祭(小祭)を行うことに。なお本祭は、子・寅・辰・午・申・戌の年になります。

山王祭は、六月十五日の例祭奉幣を中心にした、その前後に行われる二十以上の諸祭典を含めた総称です。「山王御祓並鎮火祭」や「例祭奉幣」など歴史ある厳かな行事をはじめ、「夏越稚児祭(山王子供まつり)」のように子どもが参加する出し物、各家元による献茶式、神楽囃子や山王太鼓など、日本古来の芸能に触れられる出し物も多数あり、夜は山王音頭も開かれ、期間中は何度足を運んでも楽しめます。祭りの最大の盛儀で、本祭の時だけ行われる「神幸祭」の巡幸は、都心に華麗な時代絵巻を繰り広げます。氏子町神輿の連合渡御も必見です。

※下町連合発行、月刊東京人制作「山王祭」2012年より転載

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