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〈みるきくしる〉山王祭
Sanno-Sai (Traditional Festival)

|2016.04.24

国分勘兵衛さんの日記に遺された「付け祭り」とは

羽鳥昇兵(元読売新聞編集委員)

『東都歳事記』(斎藤月岑著、巻之二)より。麹町の巨大な象のはりぼて(曳物)も名物だった。(所蔵・国立国会図書館)

江戸時代、山王祭で市民が最も楽しみにしていたのは、山車行列の合間にいくつか登場する仮装行列「付け祭り」だった。日本橋一丁目の老舗問屋から出てきた江戸時代の「日記」に、その華やかな様子が記録されていた。
山王祭は江戸時代、一大イベントだった。何しろ将軍家も氏子に持つ、山王日枝神社(当時は日吉山王大権現神社と呼ばれた)の祭りだ。山王祭と同じく“日本三大祭り〟と評された 園祭(京都)、天満祭(大阪)に負けては、将軍の権威にかかわる。五十台以上もの山車が連なる名物の祭り行列は、半蔵門から江戸城内にも繰り込み、吹き上げの庭で将軍の上覧に供して大いに意気を揚げた。市中も大賑わいで、祭り行列の巡行する町筋の商店などには桟敷が設けられ、見物客で埋め尽くされた。

しかし、江戸っ子は飽きっぽくもあった。たまに新しい人形の山車が出ることはあるが、ほとんどはおなじみの山車ばかりである。

御祭は目出たいひれの御吸い物 出し計にてみどころはなし

『武江年表』に記されている、寛政の改革時に詠まれた落首である。贅沢禁止の時代で祭りも質素なものになり、派手好きな江戸庶民は皮肉のひとつも言いたくもなったのだろう。

元飯田町に住んだ滝沢馬琴も楽しみに。

実は、天下祭で江戸市民が最も楽しみにしていたのは、山車行列の合間にいくつか登場する「付け祭り」だった。これは町奉行所から指名された町が行う「御雇祭」と呼ばれたものと、それぞれの町が仮装行列、踊り屋台など趣向をこらした催し物を披露する一団があったが、中身は変わらない。『東都歳事記』などに描かれた麹町の大きな象のはりぼてなどが有名だが、本祭に必ず出るというものではなかった。

それだけに、お祭りの一種のミステリーみたいなもので、それに興味を持つのは、当時のインテリでもあった文人も、例外ではなかった。

「昼飯後早々、お百・宗伯・太郎・お次を携、むらを召連、飯田町清右衛門方へ罷越ス。山王祭祭礼附祭、飯田町も年番に付、今日揃ひ有之よし、過日、清右衛門参り候節、見物やくそく二付、如此。然る処、遅刻に付、ねりだし候跡へ罷越候間、かへり迄待受、小児共二見物いたさせ、暮六時過帰宅」

作家の滝沢馬琴は、天保三年六月十三日付けの『曲亭馬事日記』にこう記している。新暦の一八三二年七月十日のことで、お百は妻、宗伯は医師の長男、太郎とお次はその子どもだ。つまり馬琴は一家総出で、長女の婿清右衛門方へ、山王祭の付け祭りを見に行ったのである。

元飯田町は現在の千代田区九段北一丁目に含まれる一画で、昔から日枝神社の氏子地域である。馬琴はここで戯作者活動を始めた。大作『南総里見八犬伝』を書きだしたのも、この家でのことだ。その執筆開始から三十余年後の天保三年は、二年前に家を清右衛門に譲って神田明神下同朋町東新道(現千代田区外神田三丁目)に移っていった。つまり神田明神の氏子になっていたわけだが、古巣の元飯田町や山王祭のことはいつも気がかりだったに違いない。

山王祭での元飯田町は、『東都歳事記』などを見ると、祭り行列の順番が四十五番のうちの四十二番目になっている。山車は簡素な月とススキをあしらった「武蔵野」というものだったらしい。あまり目立たないもので、評判にはならなかった。

しかしそれだけに、元飯田町が付け祭りではどんな趣向のものを出すか、馬琴には興味があったのかもしれない。ところが日記には付け祭りの中身が書かれていない。その後も『馬琴日記』にはときどき山王祭のことが出てくるだけに、元飯田町の付け祭りに触れていないのが惜しまれる。

『標有日記』に記された、日本橋通町の仮装行列。

しかし思いがけない、と言っては失礼かもしれないが、馬琴の時代からほど近い弘化三(一八四六)年の山王祭に出た付け祭りの詳細な記録が、日枝神社に寄せられていた。日本橋で三百年もの暖簾を誇る食品・酒類の総合問屋、国分株式会社の八代目当主・勘兵衛氏(俳号 標有)が、幕末から明治にかけて記した『標有日記』である。

ちなみに、弘化三年の山王祭は神社の社殿修理のため六月二十九日(新暦八月二十日)に延期となっていた。この年に、標有さんの店の当時の所在地・通町(現日本橋一~三丁目)が、隣接の元大工町、呉服町(現八重洲一丁目)と共同で、付け祭りを出したのである。これらの町はやはり共同で、神功皇后の人形の山車を、祭行列の二十四番目に引き出している(59ページ参照)。標有さんは、この付け祭りを大江戸のメーンストリート(現中央通り)で見物して記録している。

その中身は、大きく分けて三組の仮装行列で構成されている。最初が神功皇后の遠征からの凱旋、次が女性十人の鮎釣り風景、三番目は雛祭りで、子どもの踊りがある。それぞれの組に賑やかな囃子方がついている。今では歌舞伎の舞台でしか見られない地面に金棒を突き鳴らして歩く警護役の金棒引きや、地面で踊る地走りなどざっと百人からの集団になる。

その費用は大方、町で賄ったのだろう。御雇祭の場合は奉行所から補助金みたいなものが出たらしいが、それは雀の涙で、ほとんどは大店が負担したようだ。標有さんも出費を強いられたに違いない。それかあらぬか、付け祭の記録の最初のほうに、費用とみられる「価三百五十金」とある。

小判で三百五十両とは、今の貨幣価値と比較するのは難しいが、最低でも三千万円にはなるだろう。しかし、通町などのこの付け祭りが特別豪華なものだったわけではない。

標有さんは、別の町の二つの付け祭りも見学して、それぞれを記録している。「具足町ほか三ヵ町」と「北新堀町ほか六ヵ町」である。前者の“ほか三ヵ町”とは、本材木町八丁目、柳町、水谷町で、具足町とともにいずれも現京橋三丁目の、中央通りより東側の町である。後者の“六ヵ町”とは南新堀町一、二丁目霊岸島塩町、同四日市町、箱崎町、大川端町を指し、現新川一、二丁目を中心とした区域にあたる。

具足町などの付け祭は、四季の行事を表現している。春・夏は「扇千歳の踊り」である。これは能の「翁」を元にした歌舞伎舞踊「三番叟」に出てくる役で、おめでたいご祝儀の踊りである。秋は「紅葉狩」、冬は「朝比奈嶋巡」である。「朝比奈嶋巡」は、日本版の「ガリヴァー旅行記」ともいえる伝説で、鎌倉時代の武将・朝比奈三郎義秀が小人国や手長国、足長国などを巡遊する話で、錦絵にも描かれている。

北新堀町などのものは、藤見や月見での男女の踊り、あるいは雪の原野の中で乳吞み子の牛若丸の人形を抱いての母・常盤御前の踊りを見せている。当然それぞれに三味線の伴奏や太鼓などのお囃子十数人がついている。

それに興味深いのは、北新堀町などの付け祭で踊る十代から二十代までの娘たち十一人の住まいと年齢が記録されていることである。例えば「横山町三丁目芳五郎娘勢以十六歳」といったもので当然、山王権現の氏子地域ばかりの娘たちと思ったら「小石川水道町安五郎娘豊八 二十三、四歳」など神田、本郷、浅草などから出ているのである。

天下祭の山王祭は、氏子地域だけのお祭りではなく、大江戸を代表する規模の大きいお祭りだったことが分かる。


羽鳥昇兵(はとり しょうへい):1933年群馬生まれ。早稲田大学教育学部卒業。57年読売新聞社入社。社会部、解説部次長、婦人部長、編集委員を経て、93年退職。日本エッセイストクラブ会員。著書に『東京歌舞伎散歩』『ぷらっと東京』など。日枝神社社報「山王」に「山王祭 -日本三大祭- 」を長期連載中。

※下町連合発行、月刊東京人制作「山王祭」2014年より転載 

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