文・成城大学非常勤講師 滝口正哉
今年は、東京が新たに「都」として定められてから(奠都)、150年。
そのとき、江戸東京の市中は、祭りのように盛り上がっていた――。
天皇が、京都から東京へ!政府から振る舞われた樽酒
明治元(慶応四、1868)年の江戸は激動の一年だった。この年4月11日、江戸城が無血開城となると、5月12日に江戸府の設置、19日に江戸鎮台および市政裁判所などの設置がなされ、24日に徳川家の静岡移封が決まり、7月17日には江戸が東京と改められた。8月17日に東京府庁を幸橋御門内の元大和郡山藩柳沢家上屋敷に定め、9月2日に東京府制が制定されると、9月8日には明治と改元され、最後は10月13日に天皇が東京に到着し、12月8日に京都に向けて出発するまでの間、江戸城西丸に入った。
この天皇東幸には大きな政治的な意義があった。すなわち、この年9月20日、明治天皇一行は新政府が治める千代田の城を目指して京都を発ち、東海道を下っていった。3300人余の行列とともに京都御所を出発した明治天皇一行は、10月13日に江戸城西丸に入り、その直後の11月4日、明治新政府ではこの東幸を祝して東京市中1592町に2563樽の酒を下賜した。これによって東京市民は11月6・7日の両日家業を休み、「天酒頂戴」(「天盃頂戴」)と称して祭礼のような盛り上がりをみせたといわれるのである。
神田の町名主・斎藤月岑(さいとうげつしん)はこれについて、11月4日に朝六つ時(午前6時頃)に支配町内の地主・家主とともに東京府に召し出され、東幸の祝儀として御酒を賜ったことを記している。彼の編纂した『武江年表』では、一町ごとにスルメ一連と盃を木の台に載せて渡され、町名主には徳利を二つずつ与えられたと述べている。そしてこれを自分たちの町内に持ち帰る町名主一行は、幟や旗を用意し、竿の上にさまざまな造り物を飾り付けて先頭に押し立てたほか、荷車に酒樽を載せて太鼓や鉦を叩いて町内に戻ったという。このとき途中からは大勢の男女がうち混じり、大変な賑わいとなった。月岑は同月6日の日記に「今明日市中商売休、酒のむ」と記し、頂戴した酒樽を開けて町内の者に配分している。そしてこのときの光景について、「町々祭の如く出し・ねり物等出す」(『斎藤月岑日記』)と述べて、あたかも祭礼のように、町内の者たちは山車や附祭のようなものを出して盛り上がったとしているのである。
日夜を問わぬ大騒ぎ。まるで山王祭のよう
このときの光景を描いた錦絵が複数残っている。図1は左に頂戴した酒樽をたくさん積んだ荷車を引く町内の一行を描き、拍子木を打ち鳴らし、「御神酒頂だい」「天盃御用」「御酒頂戴」「天酒頂戴」と書いた旗や吹き流し・毛鎗を押し立てる人々や、揃いの衣装に着飾った女性や子ども、鳶の者などが囲んでいる。背景には江戸城の櫓がみえ、その向こうには富士山が描かれていることから、位置的に日本橋の町々の盛り上がる様子を示していることがわかる。そして、なかには被り物をした人物が描かれていることからもわかるように、これはまさしく山王祭・神田祭の山車や附祭の行列に擬した祝賀行列だったといえるだろう。
また、図2は同様に江戸橋の南側の様子を描いたもので、長谷川町・新材木町・大坂町・小舟町・大伝馬町・堺町・田所町・堀留町・麹町といった町名の旗がみえるが、これらの多くは山王祭の氏子町と重なっていることに気付かされる。
江戸の中心部に住む町人たちにとって、6月15日の山王祭と、9月15日の神田祭が隔年で交互に行われることは、毎年必ず江戸城下を賑わす祝祭があり、これに武家への対抗心をぶつけ、日頃の文化的なエネルギーを昇華させる機能をはたしていたわけである。
ところが嘉永六(1853)年の黒船来航以降、政情が不安定なこともあって、将軍の上覧がなかったり、山車や附祭が出なかったりと、完全なかたちでの祭礼がなかなか行われなくなってしまった。それゆえ、江戸の町人たちは社会不安を打ち消す祝祭行事として、この「天酒頂戴」の騒ぎを主体的に取り入れていったのである。
これについて月岑は、『武江年表』でも同様の光景を紹介していて、日夜をいとわず騒ぎ続け、なかには獅子頭を引き出す町もあって、三、四日間は祭礼さながらの賑わいだったとしている。東京ではまさに同年に東海道周辺で起こった「ええじゃないか」の狂乱に似た現象が起きたことを物語っている。
翌年3月28日、明治天皇は再び東京に到着すると以後、江戸城は皇居としての役割をはたしていった。こうしてこの「天酒頂戴」によって、東京市民は平和裏に政権交代を実感させられることとなり、以後、市街の再編も段階的に行われていった。その意味で、「天酒頂戴」は近代東京の幕開けを示す象徴的なイベントだったといえよう。
※下町連合発行、月刊東京人制作「山王祭」2018年より転載