文・松浦 由佳 まつうら ゆか 法政大学高村雅彦研究室
江戸時代から昭和初期にかけて、京橋のたもとには、大根河岸・竹河岸が広がっていた。
江戸東京の庶民の生活を支えた、市場の記憶と機能を探る。
江戸時代から昭和10年までの約270年間、京橋川にかかる紺屋橋(中ノ橋)から京橋にかけて、青物市場が存在した。通称「大根河岸」である。
もとをたどれば寛文元(1661)年、外濠川にかかる数寄屋橋付近に数件あったさつまいも問屋が、大根河岸の始まりであった。京橋に建つ大根河岸記念碑によると、遠近から多くの作物が集まり、数年も経たぬうちに店数が増加して市場としての形が整い、江戸の人々にとってなくてはならないものとなった。江戸城建設の際、外濠川には水門がつけられ市場が開ける環境ではなくなったこともあり、東海道の要衝で、かつ水運の便がいい京橋川に移転した。江戸近郊でとれた大根が多く荷揚げされたことから「大根河岸」と呼ばれるようになった。積み上げられたたくさんの大根は、まるで白い花が咲いたようだったという。
京橋川はもともと、天下普請で日比谷入江を埋め立てた代替として開削され、江戸城への物資供給経路として使われていたと思われる。京橋地区には江戸城下の港湾整備で10本の舟入堀があったし、外濠川の河岸も建築資材の倉庫として機能していた。そのため、京橋川は江戸城建設の基地にならず、河岸の移転が実現したのだ。
なお大根河岸の隣、京橋から白魚橋にかけて、竹河岸も存在した。歌川広重の「名所江戸百景」にも、長い青竹が結んで置かれ、竹問屋が並び賑わう様子が描かれている。竹は千葉から高瀬舟に乗せられて、また群馬から筏に組んで送られてきた。年末には大根河岸から門松に使う松が荷揚げされ、竹河岸の笹竹と一緒に売られ、人々は正月の用意をしたという。竹河岸は昭和初期まで機能していたと思われる。
大根河岸は明治以降、さらに賑わいを増している。前述の記念碑によると、明治10年に問屋37軒、仲買人17名をまとめ、東京府の認可を得て組合を設立し、大市場としての規模が確立したという。
しかし関東大震災が発生すると、京橋周辺も大きな被害を受け、河岸沿いの建物も崩れ落ちた。大根河岸の人々は、生活に不可欠な生鮮食品を一日たりとも欠かすことはできないと、焼け跡にバラックを建て、すぐさま営業を開始したという。震災復興の区画整理では、川の蛇行が緩やかになると同時に、川幅が広くなり河岸が一部削られた。市場としての機能が消えてしまうのかと思いきや、近代化の波にもまれることなく、震災後も機能と景観を維持し続けた。
河岸が最も魅力的であったのは、大正から昭和初期であろう。電車が発達し、河川交通が一般的ではなくなりつつあったにもかかわらず、京橋川には朝早くから多くの荷舟が行き交い、東京湾から入り来る各地の野菜を扱った。昭和初期は、小魚がとれるほど川の水も綺麗だったようで、野菜や果物を冷やすことにも使われていたのだろう。
河岸には明治には蔵が、大正から昭和にかけては問屋が並び、舟から直接荷揚げができる仕組みになっていた。荷は土間になっている一階を通って道路側へ運ばれ、市が開かれた。昭和初期の問屋の立面図を見ると、川に面して物干台があり、二階と三階には生活感があふれ出ている。生活と商業が混在する光景は、東京中央青果株式会社社長で京橋大根河岸会の会長でもある石川勲氏の話からもうかがえる。石川氏の生家は、問屋「三光山」を営んでいた。大根河岸には舟運だけでなく、内陸から荷馬車を押して売りにくる人もいたそうで、一日がかりの仕事になるため問屋の二階に寝泊まりをさせていたという。木造三階建ての一階が土間と台所、二階と三階は野菜を売りにくる人、使用人、家族の生活スペースであった。長屋であったことから、階段が二つあった。三階に上がるにつれてプライベート性が増す構造をとっていたのだ。
しかし、昭和10年、東京市中央卸売市場の開設にともない、大根河岸の市場は築地へ移転する。その際、問屋の若者が一体となり、卸売会社を作った。それが石川氏の会社である東京中央青果株式会社の元である。
京橋川沿いは機能を失い、元荷揚場は戦争中に空地に、問屋の地下階は物置になったという。昭和34年、戦災の瓦礫処理で京橋川は埋め立てられ、のち、そこには高速道路が敷設された。
石川さんらにとって父祖伝来の大根河岸の土地には、大きな愛着があった。その仲間で「大根河岸会」を発足。京橋川埋め立ての際、河岸会の人々は「京橋大根河岸青物市場石碑」を跡地に建てた。「京橋の地に大根河岸があったことを多くの人に知ってもらいたい」との思いで、平成21年、河岸会主催で、京橋大根河岸記念碑建設50周年を祝う会が行われた。東京農業大学の応援団による大根踊りや野菜、果物の無料配布などが行われ、大根河岸の賑やかさが再現されたようだった。
東京の中心ともいえる京橋に、江戸以来の絆が残っていることに驚嘆する。それが今はなき河岸によって築かれたものと知り、私は改めて都市の水路が果たす役割の大きさを実感する。
東京人2016年7月増刊より転載