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〈はたらく〉 イノベーションの舞台
FRONT of TOKYO

|2018.04.26

ベンチャー文具メーカーと共に、業界に新風を吹き込む文具営業専門家の挑戦(前編)

世の中は今、空前の「文具ブーム」と言ってよいだろう。昨年12月に開催された「第1回 文具女子博」には3日間で延べ2万5,000人が来場した。新聞やテレビのニュースで知り、このブームが降って湧いたかのように見えた人もいるかもしれないが、今回のインタビューの語り手であるNEXT switch株式会社代表取締役の寺西廣記さんは、文具ブームは歴史的な必然だと説明する。

「文具営業専門家」という唯一無二の肩書。「ベンチャー文具メーカー」という新カテゴリーの確立。成熟産業といわれる文具業界において、そのイノベーションの一端を担う寺西さんの原動力とは? さらに、地元は大阪、大学で名古屋に行き、そのまま就職した寺西さんが、なぜ東京・京橋に拠点を構えるに至ったのか、話を伺った。

システムエンジニアから異職種・異業種へ

「僕は1976年生まれで、大学入学の時期とWindows95の発売が重なっていたこともあり、システム開発に自然と興味を持ち始めました。業種よりもシステムエンジニアという職種を優先して就職活動を行った結果、大学のあった名古屋の都市ガス会社に就職。情報システム部門で8年間働きました。ガス漏れの通報システムなど緊急性の高い仕事を任され、やりがいはありましたね。ただ、体力的にも精神的にも負担は大きかったと思います。このまま仕事を続けるか? それとも転職するのか? いくつかある選択肢のひとつに、当時父親が社長(現在は会長)を務めていた大阪の寺西化学工業がありました。お察しの通り、同族企業で創業100年を超す文具メーカーです」。

「ニッポン品質」を武器に世界から一目置かれる日本の文具だが、意外にもその業界は、販売にしても卸にしてもメーカーにしても同族企業が多いそうだ。とはいえ、寺西さんの家族のなかに「家や家業は長男が継ぐもの」という空気はなかった。

「父親はいつも忙しく働いていました。ふとしたきっかけで、『家庭の時間をもっと増やして欲しい』と告げると、『それなら、お前が寺西化学工業の名古屋の営業をやってくれ』と。父親の言葉を受けて転職を決めたのは確かですが、物心ついた時から僕は、マジックインキ®︎やクレヨン、絵の具など様々な文具に囲まれて育ちました。文具に対する愛情は人一倍強かったと思います。また、実家の会社が、他社に押されていることにも薄々気づいていましたから、『自分にできることを何かしたい』という気持ちが自然に湧いてきました」。

家族について語る寺西さんは静かな表情ではあるが、心に持つ熱い思いを確かめているようだった

祖父から引き継いだロングセラーの正念場

1953年に寺西化学工業株式会社と株式会社内田洋行が共同で開発・発売した日本初の油性ペン「マジックインキ®︎」。戦後復興のさなかにあった日本で、寺西さんの祖父が成し遂げた偉業は、「魔法」と形容された商品名が物語っている。そして、筆者含むミドル世代以上にとってマジックインキ®︎は、知らない人はいないほどの超ロングセラー商品となったわけだが、寺西さんの危機感は、2006年から文具業界に身を置くようになるとさらに強まっていく。

「どこに営業をかけても『昔だったら』と言われ、子どもたちにいたっては、油性マーカーをどれも一緒くたに『マジック®︎』と呼んでいました。マジック®︎もれっきとした商標登録名なのですが(笑)。そんなある日、好きでよく読んでいたF1の雑誌の写真の中に、白い線が引かれたタイヤを見つけたんです。目を凝らして見てみると、その線が他社のペンで一本一本手書きされていることが分かりました。『これを使うくらいなら、うちにある極太タイプの方が絶対書きやすい』。とっさにそう思いましたね。しばらくして、マジックインキ®︎のホワイトカラーのリリースが決まったのはまたとない偶然でした」。

寺西さんは迷わず、当時F1国内チームのタイヤを一手に供給していたブリヂストンに電話をかける。初めは東京・京橋の本社の代表電話へ。そこから複数の部署を紹介され、F1の拠点であるロンドン支社へも問い合わせた。

現場のキーマンにつながるまで諦めない営業マンの“熱”は、おのずと伝わるものがあるのだろう。送った商品サンプルはシーズン途中ながら走行テストのチャンスを獲得。著名なタイヤエンジニアであり、寺西さんがあこがれてやまない浜島裕英氏の手にも握られた。こうしてマジックインキ®︎は2007年のF1レースで使用されて以降、4年にわたり採用されることになる。

決して需要が高いとはいえない白いマーカー。F1タイヤのマーキングという思いもよらない用途に採用されたことで大きな販売促進の成果を収めた

本当にいい文具を世に送り出したい

営業マンとして早々に大きな成果を上げた寺西さんは2013年、東京支社の経営のテコ入れを依頼される。時同じく動いていたMBA取得のための大学院選びは急遽、東京の学校に路線変更。家族を伴い、慌ただしく始めた新生活にようやく慣れてきた矢先の大阪本社への異動辞令は、寺西さんにとって驚き以外のなにものでもなかった。

「父親に代わり従兄が社長に就任した本社に呼び戻されたわけですが、東京支社の建て直しが重要な課題であることは明らかでした。1年も経っていませんでしたので、やり残したことというよりはやれていないことばかりで。僕の祖父は18歳で立ち上げた会社の工場を戦争で焼失し、それでもまた立て直し、僕たちの時代まで引き継がれるマジックインキ®︎を遺してくれました。尊敬する祖父のマジックインキ®︎が、今のままの会社の経営では無くなってしまうかもしれない、そう思ったんです」。

メーカーの思考だけでなく、業界全体を考えて行動を起こさなければ。この想いをどうすれば実現できるのか、悩んだ末に寺西化学工業を辞めた寺西さんにヒントをくれたのは、オリジナル文具の開発から販売までをひとりで手がける株式会社あたぼうの佐川博樹さんだった。

「2014年夏、大阪へ一時帰省することを佐川さんに話すと、『ついでに僕の文具を大阪で宣伝してきて』と。佐川さんの頼みはまさに目から鱗の発見でしたね。いわゆる『ひとりメーカー』が業界内で存在感を増しつつあることは気づいていましたが、そのビジネスモデルまでは目が向いていませんでした。一般的な文具メーカーには拠点ごとに営業がいて、卸や代理店、店舗に足を運びます。でも、彼らはなかなかそれが叶いません。だとすれば、僕が代わりに営業すればいい。本当にいい文具を世に送り出すことができるし、無職になった僕の仕事にもなるはずだと確信しました(笑)」。

左)NEXT switch創業の恩人とも言える、あたぼうの代名詞的商品「飾り原稿用紙」
右)「価値を次へスウィッチする」「関わる人のスウィッチをONにする」という意味が込められた社名

ベンチャー文具メーカーの伴走者に

寺西さんは、ひとりメーカーのほか、長年の技術を文具づくりに応用させた町工場など、本業の技術を活かした商品開発に取り組むメーカーにも着目。このふたつを合わせた新たなカテゴリー「ベンチャー文具メーカー」の営業サポートを事業の柱に、2014年9月、NEXT switch株式会社を設立した。

また、文具営業専門家たる寺西さんのブレークスルーのきっかけになった出来事、ブリヂストンへの商品提案の裏に、今につながるもうひとつの出会いがあった。ブリヂストンは商品の調達先として、文具・事務用品などの販売を行う株式会社モリイチを指定。同じ東京・京橋に本社を構え、日頃から取引があったからだ。そして縁が縁を呼び、現在、NEXT switchはモリイチビル(中央区京橋1-3-2)の中にあるレンタルオフィス「iKat京橋」に拠点を置いている。

寺西さんの挑戦はまだ始まったばかり。クライアント第一号のあたぼうをはじめ、つかい手に感動をもたらす革新的な文具を生み出すベンチャー文具メーカーと共に、自らも業界の未来を創るイノベーターとして日々奔走中だ。
 

東京駅から徒歩5分の場所に立地するiKat京橋。寺西さんのような外回りの多い営業マンにとって理想的な環境だ

寺西さんのインタビューの後編はこちら

◆寺西 廣記
NEXT switch株式会社 代表取締役 文具営業専門家
1976年大阪生まれ。物心がついた時からマジックインキ®︎などの筆記具やクレヨンなどの画材をはじめとした様々な文具に囲まれて育った。大学卒業後都市ガス会社のシステム部門へ就職し、2006年に祖父が創業した老舗筆記具メーカーに転職。営業、経営企画を経て2014年9月に独立し現職。「ベンチャー文具メーカー」を支援するための独自のビジネスモデルを実践。文具業界だけでなく多方面への人脈なども活用し「文具営業専門家」、文具道師範代として文具通販「文具道」の運営に携わる。MBA(経営学修士)。
 
関連サイト
NEXT switch株式会社: http://www.nextswitch.co.jp
文具通販 文具道: http://www.bungudo.jp
 

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