私の生家「星重」は明治20年にマグロ屋の鑑札として創業し、日本橋にあった魚河岸で仲買の仕事をしていたと聞いています。関東大震災後に、親父が呉服橋の角、ちょうど西河岸地蔵寺の裏辺りにうなぎ屋の店を構えました。当時の私の楽しみといえば、月に三回、4のつく日(4日、14日、24日)に開かれた西河岸地蔵さんの縁日。永代通りを越えてさくら通りの手前まで道の両側に屋台が出たんです。戦後一、二回開かれた後、交通事情で警察の許可が取れなくなり途絶えてしまいました。
白木屋の屋上には白木観音が祀ってありました(後に浅草寺淡島堂に遷座)。七月の「四万六千日」(一回のお参りで4万6000回参詣したのと同じ功徳があるとされる日)には中央通りから永代通りにかけて白木屋の軒先に、歌舞伎役者や文化人が奉納した行灯がかけられました。俳句や挿絵の描かれたその軒行灯を見ると毎年、子ども心に「ああ夏が来たんだな……」と感慨深かったですね。どちらも、古くからの住民の記憶には必ず残っている、昔の日本橋の楽しい思い出ですね。
昭和20年3月10日の空襲で店も焼けました。一帯は焼け野原になり銀座、新橋はもちろん上野の森まで見えましたよ。子どもの遊び場がないので、町会が永代通り北側の道を交通止めにしてくれました。天気のいい日はそこでもっぱら野球……といってもピッチャーが転がしたボールをバッターがモップの柄で(ホッケーのように)打つ「ゴロベース」。土日には皇居前広場や浜町公園の野球場に出かけて〝本当の〟野球をやりました。警察が青少年の不良化抑止対策として野球を奨励して野球大会を主催していたんです。
雨の日の遊び場は、百貨店。高島屋の屋上には象がいて小学生は背中に乗せてもらっていましたね。白木屋の6階に舶来品を売るOSS(Overseas Store)があって、1週間分のお小遣いをためてそこでソフトクリームを買って食べるのが最高の贅沢でした。三越ではパイプオルガンの演奏中にいたずらをして緞帳が締まっちゃったり、7階の吹き抜けから紙を破いて撒き散らしたり……警備員に目をつけられて「またお前たちか!」なんてよく怒られましたよ。何しろやんちゃでしたからね(笑)。
戦後まもなく、西河岸橋の横(今の消防機材庫のあたり)に作られた共同浴場のことはよく覚えています。鳶頭(かしら 鹿島仁太郎氏)が焼け跡から五右衛門風呂やトタンを拾ってきて手作りで設営し、近所の人に無料で開放していました。三人も入ればいっぱいになるような小さな風呂でしたが、銭湯もないときですからみんな本当に喜んでいましたね。
昭和26、7年ころの話になりますが、同じく西河岸橋の脇に手漕ぎの貸しボート屋がありました。友だち3,4人で両国の川開き花火を見に行こうとボートを借りて、勇んで漕ぎ出し、何とか辿り着いたものの、日本橋川と大川(隅田川)じゃ、川幅も大違いでしょう。波も高いし水も入ってくるし、四苦八苦しながらやっとの思いで戻ってきました。これにはさすがの悪ガキたちも一度で懲りましたよ。 外濠と日本橋川の分岐点にある一石(いっこく)橋に、面白い別名があるのをご存知ですか?江戸時代にはまだ道三堀が埋め立てられていなかったから「八つ見のはし」と言ったみたいだけど、僕らのころは「七見(しちけん)橋」なんて呼んでいました。唯一、この橋の上に立つと江戸橋、日本橋、西河岸橋、呉服橋、常磐橋、銭甕橋(道三堀に架かっていた)、そして足下の一石橋も含めて全部で七つの橋が見えたからだと思うんだけど。
町の風景は変わっても、日本橋にまつわる記憶や豆知識は後世に残したいものですね。
府川利幸(ふかわ としゆき)
八重洲一丁目中町会会長、山王祭下町連合会長、日本橋六之部地区委員会会長昭和12年日本橋生まれ。
2015年まで、日本橋の老舗うなぎ屋「星重」(中央区八重洲1丁目)の経営に携わる。
(文・浅原須美)