江戸時代の町名(旧町名)には、さまざまな職や商売の名が用いられており、同じ職業の人々が同じ場所に集まって、住まいや店を構えていたことがわかる。
たとえば元大工町(八重洲一丁目・日本橋二丁目)は番匠(大工)が多く住んでおり、箔屋町(日本橋三丁目)は打箔職人、桶町(八重洲二丁目・京橋一〜二丁目)は桶職人、
南鍛冶町(八重洲二丁目・京橋二丁目)は鍛冶の国役、北紺屋町(八重洲二丁目・京橋三丁目)は染物の国役を務める人々の集住地だった。
商店でいえば、呉服町(八重洲一丁目・日本橋一〜二丁目)には呉服店が多く、本材木町(日本橋)には材木商が移り住んでいた。
町名の由来は職業だけではない。五郎兵衛町(八重洲二丁目。当初の名主が中野五郎兵衛)、鈴木町(京橋二丁目。江戸時代初期の名主和田源七の本姓が鈴木)などには縁の人名が用いられており、川瀬某が穀店を設けたことに因むとされる川瀬石町(日本橋二丁目)は、人名と職業が合体した町名だ。元四日市町(日本橋一丁目)は毎月四の日に市が立った所で、
南伝馬町(京橋一〜三丁目)は五街道向けの伝馬(物資を馬で運ぶ役)を担った町だ。大伝馬町・小伝馬町(いずれも町名は現存する)とともに、陸上輸送という重要な役割を与えられた町として幕府から尊重され、これら「三伝馬町」の山車は、天下祭りの山王祭と神田祭では必ず祭礼行列の先頭に立ったという。
慶長九年(一六〇四)に五街道の起点と制定されて以降、日本橋は、日本全国から人々も物資も集まる江戸最大の繁華街となり、商業、金融、文化の中心地として大発展した。中でも京都へとつながる東海道の最初の区間となる通り(現在の中央通り)は特別な一等地であった。通りの両側は、日本橋から京橋に向かって順に日本橋通一丁目〜四丁目と町名がつけられ(通りの名称が町名になったのは全国でもここだけである)、呉服の白木屋をはじめ醤油、荒物、紙、白粉、お茶など、大店の問屋や両替商が堂々とした造りの店を構えていた。その賑わいは浮世絵の題材ともなり、歌川広重の「江戸名所百景」第四十四景「日本橋通一丁目略図」には、蕎麦の出前や住吉踊り(かっぽれ)の集団など、江戸の中心地の活気が実に生き生きと描かれている。
「日本橋通」という名称の町に店を構えられることは、老舗大店の証であり、誇りでもあった。一九七三年、町名変更により、日本橋通は日本橋江戸橋の二町と合併されて「日本橋一丁目〜三丁目」と住所表記が変わったが、現在もこの場所は東京の一等地であり続けている。互いを町の名で呼び合う鳶頭の世界の通称(「
TEXT:浅原須美
東京人2016年7月増刊より転載。