案内&文/山内史子 撮影/石井雄司
ここ数年、日本酒の世界が賑やかさを増している。全国区へと旨し酒が続々名乗りをあげ、総銘柄数はなんと数万種類にのぼるとも聞く。しかも、酒は合わせるつまみによって、豊かに表情を変える。塩、醤油、味噌といった調味の術はもちろん、それぞれの食材の違いで、口に含んだときの花開き方は極めて多彩だ。
1日は24時間、1年は365日。一升一斗の「いっとちゃん」と呼ばれる大酒呑みであり、超合金の胃袋を持つわたくしが暴飲暴食をず~~~っと続けても、すべて銘柄や組み合わせを網羅するのは至難の業。宇宙の覇者を目指すようなものなのだ。切ないかな、人生は限られている。日本酒への愛を深めつつ、新たな夜の友を見いだすには……と思いながら、創業・昭和14年の居酒屋・八重洲「ふくべ」の暖簾をくぐった。
歳月を経て琥珀に染まった壁には、これまたいい色合いになった日本酒の品書きがずらり。その数、約40種類。つまみはくさや、たらこ、しめ鯖、おでん、たたみ鰯、いか納豆などなど、文字を追うだけでも酒が呑めそうないぶし銀揃い。嬉しいっ! でも、悩ましい~。
迷うのもまたすてきなひとときながら、一刻でも早く呑みたいのがのんべの性。そんなときの解決策は、実はかんたん! 「おすすめは?」のひと言で、扉は大きく開かれるのだから。とりわけ初めての訪問なら、自分流を貫くよりも店の流れに身をまかせた方が喜びは増すはずだ。
というわけで、もっとも売れ筋という「菊正宗(きくまさむね)」(兵庫)の樽酒を注文し、くさや(702円)が焼き上がるのを待つことに。ご主人の北島正雄さんが冗談めかして言った「樽のなかで森林浴をしている」との言葉どおり、輪郭に清々しさを覚える。加えて、「迷ったらお隣の方に、なにを呑んでらっしゃるんですかと、声をかけてもいいんですよ」との話にも納得。確かに! 旨い酒なら、誰かにひけらかしたくなるもの。
お通しの切り昆布をはじめいずれも味付けは奥ゆかしく、そしてしみじみ旨い。なにを頼んでも酒との相性は抜群だが、たとえば満を持してのくさやは、「菊正宗」により旨みがふくらんだ。しめ鯖ではすっきりした印象が立ち、納豆系だとともにまるみを帯びる。ひとつの銘柄に絞り、あれやこれや合わせるだけでも、愉快、愉快。
酒の産地が全国に散らばっているのは、地方から東京に出てきた人が故郷を懐かしんで呑めるように、との思いから。ラインナップは昭和20年代からほぼ変わっていない。すなわち、定番の王道! あえて地元の酒を避ける人もいるが、日本酒は全国的に劇的といってもいいほど進化している。昔馴染みながらとんとご無沙汰、の銘柄もまた然り。久しぶりの再会に、惚れなおす可能性は極めて高い。
いずれにしても、出されるのは冷や(常温)か燗。最初に冷や、続いて燗でと、味わいを比べるのもまた一興。夏場でも冷房で芯が冷えた体はほっと和むが、燗酒は温もりをもたらすためだけに存在するわけではない。低温で眠っていた酒の個性が目覚める、おいしい技のひとつなのだ。すなわち、お銚子もう1本! となる。
酒とつまみによって開花する美しき夜をさらに明確に実感できたのは、日本橋「川口酒店」だった。メニューのトップを飾るのは刺身だが、面白いのはそれぞれに漬けや炙りも用意され、同じ魚で2種類の味わいが楽しめることにある。店長の山田隆之さんは鮨店出身の目利きで、天然物以外は使用せず! 果たして金目鯛の刺身は、やさしい脂がふくよかに立つ……旨い、旨いっ。
思わずぱくぱく平らげてしまいそうになるのを我慢し、おすすめの「惣誉(そうほまれ)」(栃木)を合わせると、また異なるドラマが生まれる至福あり。酒そのものはやわらかな飲み口で、ほわんと心地よい余韻。それが刺身と一緒だと名残が引き締まり、漬けの場合は金目鯛の旨みが引き立った。白いかには、やさしさをたたえつつ味わい深い「寿㐂心(すきごころ)」(愛媛)を。刺身はいかの存在感が立ち、炙れば酒と手を取り美しく溶け合うではないか。むふふふふっ。
美味なる天ぷらもまた、見逃せない。「鯵梅肉巻き」とともに頼んだのは、骨太な「神亀(しんかめ)」(埼玉)。鯵の旨みと梅の酸味が広がる口中で互いがふくよかに昇華する、がっぷり四つの勝負が展開される。一方、なすの天ぷらは酒がエレガントに彩り、ふわりとした甘みがいっそう際だった。
扱う日本酒は、全国広く約30種類。王道から新進気鋭まで揃う上、しなやか軽量系からどすこい重量系まで味わいもバラエティに富んでいる。もともと酒販店の倉庫だった建物を、かつての雰囲気を残してリノベーションした空間は洒落た趣きあり。1階は立ち飲みなので、気軽にあれやこれやと試せるのも魅力。実験よろしく、酒とつまみとの相性の妙を追っていただきたい。わかりやすいアプローチは互いのパンチの威力を等しくすることだが、バランスを違えれば、ふんわり包み込んだり、絶妙に引き立て合ったりと物語が変わっていく。ゆえに、夜は長くなる。呑めば呑むほど、幸せも深まる。というわけで、もう一杯……。
案内人プロフィール: 山内史子(やまうち・ふみこ)
グルメ雑誌「dancyu」(プレジデント社)にもたびたび登場する、酒豪の紀行作家。1966年生まれ、青森市出身。日本大学芸術学部文芸学科卒業。英国ペンギン・ブックス社でプロモーションを担当した後に独立。国内外の史跡や物語の舞台に立つ自分に酔い、夜は酒場で美酒に酔うのがなによりの生きがい。一升一斗の「いっとちゃん」と呼ばれる大酒呑み。著書に「英国貴族の館に泊まる」「英国ファンタジーをめぐるロンドン散歩」(ともに小学館)、「赤毛のアンの島へ」「ハリー・ポッターへの旅」(白泉社)、「ニッポン『酒』の旅」(洋泉社)など。
『四季料理 いけ増 日本橋店』
旬の素材を活かした季節メニューと、定番メニューがあります。季節を感じる鮮魚や野菜が食べたかったら、迷わずここへ。日本酒をはじめ、食事にあうお酒も揃っています。
東京街人内でのご紹介: http://guidetokyo.info/foodshoping/syun/syun03.html
『四季と酒の蔵 稲田屋 日本橋店』
鳥取県の日本酒「稲田姫」をつくる蔵元が手掛ける居酒屋です。東京ではめずらしい山陰の食材を使ったメニューがたくさんあり、日本酒と料理の組み合わせを楽しむのも一興です。
東京街人内でのご紹介: http://guidetokyo.info/foodshoping/relay/00137.html
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