東京駅の目の前、かつて檜物町と呼ばれた一帯に、江戸時代から戦後まで、花柳界が広がっていた。在りし日を記憶する人びとが、その華やかなお座敷、そしてまちの様子を語ってくれた。
text: 浅原須美
あさはら すみ フリーライター。約20年にわたり全国四十数ヵ所の花街に足を運び、芸者衆や料亭関係者などを取材、執筆活動を行う。著書に『花柳界入門 夫婦で行く花街』(小学館)、『お座敷遊び 浅草花街芸者の粋をどう愉しむか』(光文社新書)、『東京六花街 芸者さんに教わる和のこころ』(ダイヤモンド社)。HP「全国花街・芸者ひろば」 http://geishahiroba.tokyo/
東京駅八重洲中央口を出て、正面の八重洲通りに向いて立ち、左前方を見る。外堀通りを挟んで大丸東京店の対面あたりが、半世紀前まで日本橋花柳界のあった場所だ。昔の町名でいえば檜物町、数寄屋町、元大工町、上槇町の四町。現在の中央区八重洲一丁目である。
起源は古い。江戸時代中期の安永年間(1772〜81)にすでに芸者が存在し、文化文政期(1804〜30)には花街が栄えていた。天保の改革で深川などの岡場所(幕府が認めた吉原遊廓以外の、非公認の遊廓)が潰されたとき、深川を離れて隅田川を渡った芸者の多くが柳橋に住み着き、一部は日本橋に定着した。深川芸者の「意気と張り」を受け継ぎ、当時日本橋にあった魚河岸関連の人々が多く訪れたことも影響して、次のような日本橋芸者の気風が出来上がったとされる。
「
関東大震災(大正12年)後、魚河岸が築地に移転して以降も、引き続き兜町の株屋や日本橋本町の大店、大問屋の旦那衆、有名企業の会社員などが訪れ、柳橋や芳町あたりと肩をならべる一流の花柳界として存在感を保った。当時、日本橋の芸者は287名(うち半玉〈半人前の子どもの芸者〉26名)。柳橋の366名(同30名)、芳町の713名(同84名)と比べて少ないのは、地理的に御城(皇居)に近いことが大規模な発展を控えさせたのだとの見方もある。
日本橋芸者は、昭和3年まで使われていた旧町名を冠して「檜物町芸者」とも呼ばれた。花街情緒に溢れた戦前の日本橋を知る人々は、日本橋芸者よりも「檜物町芸者」の響きのほうが馴染み深く、情景を鮮明に呼び起こすという。したがってここでは「檜物町芸者」の名称を用い、在りし日の日本橋花柳界に思いを巡らせてみたい。
明治35年に檜物町で創業し、現在も同じ場所で営業を続ける「割烹や
一流の料亭には、入る芸者も客も一流だ。厳しく芸事を仕込まれる檜物町芸者の中でも特に芸達者で評判の高い芸者しか入れず、檜物町芸者にとって、や満登のお座敷に呼ばれることは大変な名誉だった。自動車自体がまだ珍しかった時代に黒塗りの高級車を玄関に横づけして、鉄鋼、製紙、化学など当時の日本をリードする花形企業の上層部が連日接待の宴に訪れた。
彼らは、や満登の中でどのような時間を過ごしたのだろうか─。それは想像以上に優雅で贅沢なものだった。まだ日も高いうちからやって来ると料亭が用意した浴衣に着替え、冬なら上に丹前を重ね、リラックスした服装でとりあえず一服。それからお座敷を会議室替わりに使ったり、ときには仕事を離れて囲碁将棋の対戦を交えたり。一段落すると風呂に入って汗を流し、再び浴衣に着替えて、今度は芸者衆を入れた本格的な宴会が始まる。風呂といっても銭湯ではない。や満登には客用の風呂場があったのだ。そのこと自体はさほど珍しくないが、や満登の浴槽は八畳もの広さがあり、背中を流す専門の番頭さんまで雇われていたというから驚く。
戦前の日本橋花柳界は、ただ芸者衆を呼んで宴を行うだけの場所ではなかった。時間の制限はゆるく利用目的は幅広く、常連客にとって非常に使い勝手のよいくつろぎの空間だったのだ。
同じ敷地内でも、お客と家族は出入りする門も別。料理屋領域と厳密に区切られていた居住スペースの中で、少年時代の成川孝行さんは花柳界の気配をさまざまな場面で感じていた。たとえば年越し。「大晦日から徹夜で営業していましたから、いつにも増してにぎやかで。ところが途中でざわめきがぷつりと途切れる時間帯があるんです。除夜の鐘が聞こえはじめるころ、お客さまが芸者衆を連れて山王日枝神社や富岡八幡宮に初詣にお出かけになるんですね。夜中の2時か3時ころでしょうか、しばらくすると、またにぎやかになるので、ああ戻ってきたんだな、と」。
正月が過ぎればすぐに節分だ。花柳界には芸者衆が仮装をして座敷を回る「お
外を歩けば昼間から聞こえるお稽古の三味線や鳴り物。音色が違い 調子が外れると、お師匠さんが調子扇(閉じたままの扇)で台をパンパンパンパンと叩き、“違うじゃない。そこもう一回!”と荒げる声が外まで響いた。
町には、や満登を筆頭に、 よ田、中井、仙月、永森などの料理屋や待合(板前を置かず、芸者衆と酒と簡単なつまみで客をもてなす店)、芸者屋が軒を並べていた。
八重洲一丁目中町会会長で元うなぎ割烹「星重」の府川利幸さん(78歳)が思い出すのは、近所で見られたこのようなほのぼのとした風景だ。「夜になると芸者衆が空の湯たんぽを持って、やぶ久というお蕎麦屋さんに蕎麦の茹で汁をもらいに来るんです。とろみがあるから保温性がいいのでしょう、昔の人の知恵だね。“こんばんは”と若い芸者衆の声がすると、店の連中が“俺が出る”“いや俺だ”なんて争ったりしてね。待合の前では人力車の車夫が
ぜひ紹介しておきたい戦前の一場面がある。「西河岸の地蔵さまの縁日に、草花や金魚鉢の涼しく並んだ間を、お座敷がえりの半玉が、うすものの派手な長い袖をひるがえしてゆく美しさは、さすがに花街らしい風景。日本橋の夏の夜の涼しさは其処から湧くかとおもわれる」(『全國花街めぐり』)。
美しい絵のような光景も、昭和20年、二度の大きな空襲ですべてかき消された。日本橋周辺は焼野原になり、町はすっかり変わってしまった。
戦後の復興は早く、見番(芸事の稽古場を兼ねた花柳界の連絡事務所)も再建され、昭和27年の集合写真には40名弱の芸者衆が並ぶ。山王祭の手古舞行列や白木屋デパート屋上の「日本橋まつり」ステージなど、しばらくは芸者衆も町のイベントに溶け込んでいたが、もはや企業が花柳界に大金を落とせる時代ではない。芸者の高齢化と廃業に歯止めがきかず、昭和35年5月5日、日本橋花柳界は解散。江戸時代からの長い歴史に幕を下ろした。
まさにその最後の日に、日本橋の老舗・榮太樓総本鋪相談役の六世細田安兵衛さん(88歳)は、父親と料亭のお座敷に上がっていたという。商売柄、芸者衆は創業当初からのお得意様で家族ぐるみのつきあいもある。花柳界贔屓の祖父と父を手本に育った細田さんは、日本橋に限らず花柳界そのものを一流の社交場として尊重し、若いころから足しげく通い続けている。
「親子でかち合うとお互いに気まずいから、今日はじいさんが柳橋、親父が芳町だから僕は新橋へ……と、昔は行先を変えていましたね。もちろん地元日本橋はいちばん大切な花柳界で贔屓にしていましたが、身近すぎてお座敷では新鮮味に欠けたかもしれないなあ(笑)。最後のころは芸者衆も10人か15人程度だったんじゃないかな。なくなってしまうのは寂しいけどしかたがない、来るべきときが来ちゃったな、という印象が強かったと思いますね」
芸者衆の一部は神楽坂に住み替えたが、日本橋に残った数人は組合解散後もお座敷に出ることがあったという。や満登四代目主人・成川英行さん(51歳)が芸者衆の存在を覚えているのだ。「当時、お店の上が自宅だったのですが、夜、下から賑やかな音が聞こえて来るんです。そっと下りていくと芸者衆の三味線でお客さんが踊る様子が障子越しに見てとれました。路地には待合の建物が残っていて三味線の音も聞こえていましたね」。昭和39年生まれの英行さんが幼稚園のころの記憶 ─ つまり昭和44、5年ころまでは確かに日本橋に花柳界の名残があったのだ。
日本橋花柳界と泉鏡花作『日本橋』、そして西河岸地蔵寺は密接な関係にある。大正4年、新派の「日本橋」初演の折、当時21歳で無名の役者だった花柳章太郎は半玉・お千世の役を切望して、西河岸地蔵に願を掛けた。見事に役を勝ち取り、これが出世作となる。
二度目(昭和13年)のお千世役を明治座で上演した際、花柳章太郎は「お千世の図額」を西河岸地蔵寺に奉納。その後、中央区民有形文化財に指定された。
や満登と「日本橋」のつながりも深い。戦前から千秋楽には必ず、や満登の大広間で打ち上げが行われ、花柳章太郎、水谷八重子、喜多村緑郎など錚々たる役者衆が芸者衆総揚げ(全員を呼ぶこと)で成功を祝った。「劇中に“や満登さんでお座敷よ”というセリフを入れてくれましてね。うちからも従業員全員と芸者衆も連れて観劇に出かけ、“や満登の総見”と呼ばれたものです」(成川孝行さん)。
孝行さんは今もときどき、店のベランダからビル街を眺め、戦前を懐かしく思い出すことがあるという。「檜物町芸者」と聞いて真っ先に思い浮かぶ光景は何だろうか。「うちのすぐ近く、八重洲通りと外堀通りの角に“電気湯”という銭湯がありましてね。そこに浴衣の芸者衆が風呂桶を抱えてやって来るんです。その姿が粋というか艶っぽいというか、なんとも言えない情緒がありましてね。子ども心に、ああ、いいものだなあと……」。
大切な思い出の数々を話してくれた長老たち。それに応え、単に日本橋花柳界が“あったこと”だけでなく、“あったころのこと”を、少しでも生き生きと伝えることはできただろうか。
東京人2016年7月増刊より転載。