〈むかしみらい〉タイムトラベルガイド
TIME TRAVEL GUIDE

|2020.08.31

第一回 交通案内(前篇) 行き先:慶長年間の江戸湊

執筆:澁川祐子

再開発が進む東京駅の東側。オフィスや商業施設が建ち並ぶ八重洲、京橋、日本橋の一帯は、水運、陸運の要衝として開かれて以来、人と物が集まる最先端エリアとして発展してきた――。その歴史を駆動してきた“場”と“人”を追う時間の旅へようこそ。


水の都・江戸の出発点

歴史の痕跡をたどりながら、東京の町を歩くのはこんなにも楽しいのか。町歩きのテッパンである川跡めぐりを、歴史に精通する人の案内でたどってみてから、そう思うようになった。東京の町はすっかりコンクリで上書きされているようでいて、まだらに時間の記憶が残されているところがにくい。わかりやすい手がかりは「橋」がついた地名だ。町名にも駅名にもなっている京橋や新橋。交差点や通りの名前になっている鍛冶橋。ちょっとマイナーどころでは、白魚橋料金所なんて高速道路の料金所名もある。

江戸は「水の都」なんてよくいわれるように、運河や水路が町中をめぐっていた。もともと「入り江の戸」に由来するとされる江戸はその名の通り、徳川家康が江戸入りした16世紀末には、今の日本橋から京橋、銀座、新橋までのあたりは江戸前島と呼ばれる半島状の低地で、その西側、今の日比谷公園から大手町駅付近までは日比谷入江という浅瀬が入り込んでいたとされる。

江戸城を中心として円環状に堀が整備され、巨大な市街地が形成されていくのは、江戸幕府が開かれてからのことだ。諸大名に労働力や資材、資金、さらには技術の提供を命じて土木工事を行う「天下普請」によって、江戸の都市開発は急速に進んでいく。

城郭の建設とともに、その残土を使って日比谷入江の埋め立てが進められ、大名の屋敷地になる。入江の一部を埋め残す形で、城を守ると同時に治水や舟運の機能をあわせもつ外濠も開削される。さらに、そこから海へとつながる水路も整備され、河岸が形成される。そんなふうに町は海へと進出し、埋め立てを繰り返してきた。そして埋め立てるたび、新たな水の流れがつくられた。

城をつくりながら、町がつくられ、新たに開かれた水路を利用して、城がさらにパワーアップする。そんなふうに江戸城の工事と市街地の整備は、表裏一体となって次第に形づくられていく。100万の人口を擁する一大消費地となった江戸を支えてきたのは、絶えず手を加えられ、拡張していった運河や水路だった。

江戸の大胆なインフラ開発。その一端を垣間見せてくれる、ある川の変遷をたどるところから旅を始めてみよう。

© OpenStreetMap contributors
日比谷入江の位置は、鈴木浩二著『地図で読みとく江戸・東京の「地形と経済」のしくみ』を参考に作成。正確な範囲については諸説ある。

江戸の最先端ウォーターフロント、現る

首都高速環状道路の江戸橋ジャンクションから、京橋ジャンクションに至る線上には、かつて「楓川(かえでがわ)」と呼ばれる川が流れていた。日本橋川から南に分流し、京橋川と桜川(八町堀)に合流する1.2kmほどの流れである。

西岸沿いには、江戸時代初期から木材が荷揚げされる本材木河岸があり、その木材を加工、販売する職人や商人でにぎわった。昭和の初めには、関東大震災後に新設された築地市場と連絡する運河が建設され、その舟運ルートは長きに渡って活躍してきた。だが戦後になり、モータリゼーションが加速したことでその役目を終え、昭和35年(1960)から埋め立てが始まり、昭和40年(1965)には完全に姿を消した。

この川筋には高速道路が走り、多くの橋は高速道路をまたぐために今も残されている。昔の川は、今は道となって、舟の代わりに車が行き交う。それだけに、川のありし日の姿を思い浮かべることはたやすい。だが、さらにさかのぼること江戸時代の始まりに、ここが海との境目だったと聞いたら、どうだろうか。

左)天保7年(1836)刊『江戸名所図会』(画・長谷川雪旦、編・齋藤月岑)に描かれている楓川の合流地点。明治36年(1903)までは三十間堀川と合流しており、楓川の「弾正橋」(右下)、京橋川の「白魚橋」(右上)、三十間堀川の「真福寺橋」(左)と三つの橋が「コ」の字に架かっていたことから、「三ツ橋」と呼ばれた名所だった。左下の流れはのちに桜川と呼ばれる八町堀。(提供・国立国会図書館デジタルコレクション)
右)現在の弾正橋。名前は、橋の東側(八町堀側)に、町奉行の島田弾正の屋敷があったことにちなむ。

かつての海が川に変身したのは、将軍の一声が発端だった。慶長16年(1611)、二代目将軍秀忠が命じた「舟入堀」の建設である。

舟入堀とは、水路を掘ったところに舟を曳き込んで接岸させる、いわゆる埠頭を指す。なぜ舟入堀が必要だったかというと、築城用の建築資材を運ぶためだ。重いものを輸送するには、クレーンなどのない時代、陸上より水上のほうが好都合なのはいうまでもない。もちろん、それまでも築城用の石材や木材を陸に揚げるための河岸はあった。たとえば、現在の内神田一〜二丁目にあったとされる中世からの河岸「鎌倉河岸」では、家康が江戸入りした頃から伊豆国の石材や相模国の木材が荷揚げされていたとされる(名前は、鎌倉から来た材木商たちが河岸を仕切っていたことにちなむ)。

だが、工事が進むにつれ、より効率的に輸送できる湾岸設備が必要になったのだろう。そこで目をつけたのが、江戸前島の東側、外海に面した海岸沿いである。とはいえ、江戸湊はあいにく遠浅の海で、大きい船が陸まで近づくことは難しい。そこで舟入堀を造り、資材をできるだけ建設現場に近いところまで船で持っていけるように改造を命じたのだ。

舟入堀の開削と同時に、そこで出た土砂を利用して、近くの中洲の埋め立ても進んだ。こうして造成されたのが現在の兜町から茅場町、八丁堀に続くエリアであり、その間に埋め残されて運河となったのが楓川だった。なぜそうとわかるかといえば、寛永9年(1632)に描かれたとされ、初期の江戸の様子を詳細に記している地図『武州豊嶋郡江戸庄図』(俗に寛永江戸図と呼ばれる)に楓川と、そこに開削された櫛型の舟入堀が記されているからだ。

劣化が激しく見にくいが、その数、なんと9本。なかでも中央にある、とりわけ長い堀は「紅葉川」と呼ばれ、中間には「中橋」という橋が架けられていた。鈴木理生氏は『江戸はこうして造られた』(ちくま学芸文庫)で、舟入堀の開削当初、他の堀の半数近くがこの紅葉川のように長く、外濠に達していたのではないかと推測している。東京駅八重洲側の日本橋から京橋あたりまでに埠頭が並び、船がひっきりなしに出入りしていたなんて、今から考えてみても壮観だ。

左)寛永9年(1632)に作成されたと推定されている『武州豊嶋郡江戸庄図(部分)』に描かれている舟入堀。損傷が激しいが、上の外濠に向かって、水路が開削されているのが確認できる。
右)嘉永2~文久2年(1849~1862)刊『江戸切絵図』より「築地八町堀日本橋南絵図(部分)」(景山致恭ほか編、尾張屋清七版)。紅葉川が完全に埋め立てられ、町人地となっていることがわかる。(ともに提供・国立国会図書館デジタルコレクション)

町を拡大させた築城という公共事業

かくして、かつての海岸線は川となり、巨大な湾岸設備へと変貌を遂げた。海から運ばれてきた建築資材は、同時期に整備された八町堀を通って、楓川の舟入堀で次々と荷揚げされるようになる。

あたり一帯は、各地から派遣された人夫たちの、それぞれのお国の言葉が飛び交い、早朝から日が暮れるまでずっと喧騒に包まれていたに違いない。もっとも難儀しただろう荷は、動かすのに100人の人夫が必要だといわれる伊豆国の「百人持ちの石」。これを陸揚げするには「修羅」と呼ばれる木製のソリにのせ、人力のろくろでもって巻き取らなければいけない。陸に揚げてからは、滑りやすいように海藻を敷き詰めた丸太や割り竹のコロの上を転がしていく。修羅を曳く者、後ろから押して加勢する者、横で音頭を取る者。「修羅」が鈍い唸りをあげ、丸太がガラガラと鳴り、そこへ人夫たちのリズミカルな掛け声が加わる。近くでは、運んだばかりの木材や石材を加工する職人たちがノミや金槌の音を響かせていたかもしれない。

故郷を離れて湊で力仕事に明け暮れる人夫たちが、はたしてどのような暮らしをしていたか、定かではない。ただ、その一端をうかがえる絵がある。慶長12年(1607)から着工した駿府城の築城を描いているのではないかとの説があり、慶長年間(1596~1615)後半頃に制作される『築城図屏風(所蔵・名古屋市博物館)』だ。そこには石材や木材を運んだり、石垣を積んだりと忙しく働く姿だけでなく、派手に喧嘩したり、茶屋で一杯やっていたりする姿が描かれている。うどん屋や仮設の芝居小屋、皿まわしの芸人なども描かれ、人夫たちを目当てにした飲食業や娯楽といったサービスがすでに成立していたことも確認できる。人夫たちは報酬を米でもらうことが多かったというから、米を換金して日々の必需品を購入したり、束の間の息抜きに興じていたりしたのだろう。人が集まれば、その周縁にビジネスが生まれ、それがさらに人を呼び寄せ、マーケットが拡大する循環に転じるのは、いつの時代も同じだ。同じような光景が楓川沿いでも繰り広げられ、のちに町の発展につながっていったとしても不思議ではない。

発案から4年、慶長年間の終わりにはすでに完成していたと考えられる舟入堀。人と物が集まり、江戸の町をつくる起爆剤になった湾岸施設だったが、その行く末は意外にあっけなかった。先の鈴木氏の見立てが正しければ、寛永期(1624〜 1644)にはすでに埋め立てが始まっていたことになる。実際、それからあとは徐々に埋め立てが進み、町人地に飲み込まれていく。そして弘化2年(1845)には、わずかに残っていた紅葉川も完全に消滅した。

必要とあらば、少々無理があってもつくる。不要となればそのつど、つくり変える。とくに近代以降は、モータリゼーションが進むにあわせ、ある川は関東大震災の復興事業や第二次世界大戦の瓦礫処理のため、またある川は高度成長期に公衆衛生を理由に埋め立てられ、撤去された。そしてもうそこに川も橋もないにもかかわらず、かつて水の流れがあったことが地名に刻まれている。

高速道路と煤けた防音壁が続く楓川跡の風景もまた、江戸の都市開発の延長線上にある。変わり続けることこそが、この地が都市として歩み始めたときから唯一、変わらないことなのだから。

楓川跡に残された橋から。左は明治43年(1910)創架の千代田橋。右は江戸時代からある松幡橋。千代田橋は高速道路が上を走り、もはや橋の役目を終えているにもかかわらず残されたまま。松幡橋は上下を高速道路に挟まれている。そんな一貫性のなさも東京らしい。

協  力:(株)建設技術研究所 国土文化研究所
参考文献:
東京都中央区立京橋図書館編『中央区年表』[江戸時代篇 上、中、下]東京都中央区立京橋図書館、1985年
鈴木理生『江戸はこうして造られた 幻の百年を復原する』ちくま学芸文庫 、2000年
鈴木理生『図説 江戸・東京の川と水辺の事典』柏書房 、2003年
菅原健二編著『川跡からたどる江戸・東京案内』洋泉社、2011年
鈴木浩二『地図で読みとく江戸・東京の「地形と経済」のしくみ』日本実業出版社、2019年

<執筆者プロフィール>
澁川祐子
ライター。食と工芸を中心に編集、執筆。著書に『オムライスの秘密 メロンパンの謎ー人気メニュー誕生ものがたり』(新潮文庫)、編集・構成した書籍に山本教行著『暮らしを手づくりするー鳥取・岩井窯のうつわと日々』(スタンド・ブックス)、山本彩香著『にちにいましーちょっといい明日をつくる琉球料理と沖縄の言葉』(文藝春秋)など。

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