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〈むかしみらい〉タイムトラベルガイド
TIME TRAVEL GUIDE

|2022.11.10

第七回 映画を支えた街(前篇) 行き先:明治終わりの京橋

執筆:澁川祐子

再開発が進む東京駅の東側。オフィスや商業施設が建ち並ぶ八重洲、京橋、日本橋の一帯は、水運、陸運の要衝として開かれて以来、人と物が集まる最先端エリアとして発展してきた――。その歴史を駆動してきた“場”と“人”を追う時間の旅へようこそ。


100年以上の歴史をもつ「映画の聖地」

京橋交差点からほど近く、鍛冶橋通りに面して国立映画アーカイブはある。

その歩みは、この場所に昭和27年(1952)、フィルムライブラリーを備えた国立近代美術館が開館したことにはじまる。昭和44年(1969)に美術館が竹橋へ移転する際、映画部門はこの地に残り、翌45年、東京国立近代美術館フィルムセンターとして開館。さらに平成30年(2018)、日本で唯一映画を専門とする国立美術館「国立映画アーカイブ」として生まれ変わった。

オフィスビルに囲まれた一画に、映画の聖地ともいえる施設がなぜ建っているのか。この場所の来歴を知らなければ、不思議に思うかもしれない。じつは、この地は100年以上にわたり、日本映画の歴史とともに歩んできた場所なのである。

日本橋が五街道の起点に定められた江戸の開幕以来、日本橋から京橋に至るこの界隈は、全国津々浦々の産物が集まる江戸の中心地となった。それは明治維新という時代の変化を経てもなお、変わらなかった。海外からやってきた新たなメディアである「動く写真」=「活動写真」と呼ばれた映画の受容にも、この地のネットワークは一役買っていた。

黎明期から繁栄期まで、映画を支えた街。歴史をたどっていくと、そんな知られざる街の一面が浮かびあがってきた。

現在の国立映画アーカイブ京橋本館(中央)は、芦原義信氏の設計により1995年(平成7)に建て替えられたもの。三角窓が印象的な7階建ての建物には、大小二つの上映ホール、展示室、図書室が完備

新参者の映画会社「福宝堂」の設立顛末

国立映画アーカイブがあるこの地と映画との関わりは、明治43年(1910)に遡る。映画がまだ「活動写真」だった頃、当時は具足町と呼ばれていたこの地に一つの活動写真館がオープンした。同年に設立された映画会社「福宝堂」が開設した「第一福宝館」である。

福宝堂は、このとき京橋の第一福宝館だけでなく、四谷の第四福宝館を皮切りに東京市内で計8館を次々と開館させた。その8館とは、第一福宝館(京橋区具足町)、第二福宝館(芝区桜田本郷町)、第三福宝館(麻布区新網町)、第四福宝館(四谷区荒木町)、第五福宝館(本郷区春木町)、第六福宝館(下谷区竹町)、第七福宝館(日本橋区吉川町)、第八福宝館(本所区若宮町)である。

起ち上げと同時に福宝堂が活動写真館の経営に乗り出した明治40年代は、各地で相次いで常設の活動写真館ができた時代だ。映画の歴史を簡単に振り返ると、海外から渡来した活動写真が相次いで公開されたのは、明治29年(1896)から翌30年(1897)にかけてのことである。この目新しい娯楽は、明治30年代を通じて各地で熱狂的に受け入れられていくが、当初は見世物師と呼ばれる興行師が各地の寄席や演芸場を巡業して披露する、舶来の見世物の一つに過ぎなかった。

日本で初めてできた活動写真の常設館は、明治36年(1903)に浅草公園六区でオープンした電気館である。この場所にはもともと「電友館」という、X線の実験など電気じかけのショーを見世物にした小屋があった。その畳敷きを取り払い、土間に改築しただけの粗末な建物だった。だが、これが呼び水となり、明治40年代ともなると周辺に活動写真館が建ち並び、浅草六区は映画街として名を馳せるようになった。

福宝堂が設立され、京橋の第一福宝館が登場したのは、そんな時代の最中のことだ。当時、東京の吉沢商店、M・パテ―商会、それに京都の横田商会という3社の興行会社が、すでに活動写真の輸入と制作をめぐってしのぎを削っていた。福宝堂は、そこへ遅れて参入したのである。

福宝堂の興りには、有名なエピソードがある。映画史家の田中純一郎著『日本映画発達史Ⅰ』を参照しながら、そのいきさつを紹介しよう。

福宝堂を起ち上げた田畑健造(たばたけんぞう、1874-没年不明)は、もとは映画と何の縁もない人物だった。日本皮革(現・ニッピ)の取締役だった田畑建造はあるとき、友人である代議士の川村惇から、今後は活動写真の常設館は一区につき1館しか許可しない法令が出るらしいという話を耳にする。活動写真の人気が高まるにつれ、風紀の乱れが懸念され、取り締まりの対象になっていたのだ。

そこで田畑はすぐに行動を起こした。本所の第一ポ館というM・パテ―商会系列の活動写真館を経営していた滝口乙三郎に声をかけ、当時15区あった各区で、好立地の空き地を探させた。そして地主を無理やり説き伏せ、「福宝館建設敷地」の棒杭を立てたという。

かくして15の映画館建設地と許可権を押さえたが、実業家であった田畑は、映画館経営に自ら参入する気はなかった。土地付きの許可権を1万5千円くらいで売って利ざやを稼ぐつもりだったのだが、その目論見は外れ、買い手は一向に現れなかった。そこで叔父の賀田金三郎(かだきんざぶろう、1857-1922)に出資を頼み、明治43年(1910)に合資会社福宝堂を設立。めぼしい地区だけを選んで、先の8館を建設したのである。


土蔵造りの会社が建てた、コンクリートの劇場

福宝堂の本社所在地は、明治43年(1910)7月14日付東京朝日新聞朝刊の開業を知らせる広告によると、日本橋区通二丁目1番地とあり、現在の日本橋交差点の東南角の区画に位置していた。さらに2年後の明治45年(1912)5月31日付読売新聞朝刊では、日本橋区通一丁目の斜向いに移転したことが告げられている。この場所は、白木屋呉服店(現・コレド日本橋)と中央通りを挟んで向かいの角の一等地である。東京日日新聞の演芸記者だった桑野桃華の回想録『水のながれ』によると、本社は〈砂糖屋の店を買ひ潰した土蔵造の二階家を改造したもの〉だった。

大正元年(1912)刊『東京市及接続郡部地籍地図 上卷』掲載の「日本橋区」地図(提供・国立国会図書館デジタルコレクション)。日本橋交差点の西北角の通一丁目13番地に小さく「映画会社/福宝堂」の文字が見える

明治に入り、京橋を境に銀座側は煉瓦街に変貌を遂げたが、日本橋側は土蔵造りが依然とし
て並んでいたことは、本連載の第二回前篇でも述べた。福宝堂の本社もそのうちの一軒だったわけだが、一方、新設の劇場はどのような建物だったのだろうか。

福宝堂の創業当時、営業部長を務めた小林喜三郎(こばやしきさぶろう、1880-1961)は、昭和18年(1943)に田中のインタビューに答え、映画館建設当時の様子を次のように語っている。なお小林喜三郎は、興行師として頭角を現しはじめていたところ、その腕を見込まれて福宝堂に入社した人物だ。

〈入社して第一にかかった仕事が劇場の建築でした。許可権を買いに来る者がなかったので、やむなく会社自身が建てることになったのだが、賀田さんという人は、米相場で知られた豪胆な人ですから、資金もどしどし融通してくれたので、その頃としては堂々たる映画館がたちまち八つも出来てしまったのです。第八福宝館まで建て、第九は錦輝館を買収するはずでしたが、これが応じないので一まず打ち切りにしました。福宝堂の定員はいずれも350人くらいです。〉

賀田は米相場で儲けたほか、植民地時代の台湾の製糖業でも一旗揚げたことでも知られている。潤沢な資金をもとに、一館平均3万円ほどの建築費をかけ、完成したのはコンクリート造りの立派な建物だった。明治30年代の1円は現在の2万円ほどの価値があったというから、単純計算すると1館につき6億円に上る。それを立て続けに8館も建てたとなれば、新参者とはいえ、業界としては一目置かざるを得なかったに違いない。はたして2年後の大正元年(1912)、福宝堂は競合3社と合併して「日本活動写真株式会社」、略して「日活」となるが、その際、一番勢いのある会社になっていた。


第一福宝館と映画少年

ひるがえって街の人々は、この新しい劇場をどのように受けとめたのだろうか。

京橋育ちの映画人に、明治41年(1908)生まれの映画評論家・筈見恒夫(はずみつねお、1908-1958)がいる。母方の実家は、江戸から続く「大刀伊勢屋」という老舗の紙商だった。大刀の絵柄を中央に赤く染め出した紺暖簾がトレードマークで、仲田定之助著『明治商売往来』によると、南伝馬町四丁目(後に三丁目に編入)の西南角にあった。大正時代の地図をあわせ見るに、現在の京橋三丁目1番地、京橋交差点に面した東京スクエアガーデンの角あたりだろうか。この角といえば、古くはおしろい、維新後にこうもり傘を売り始めた「仙女香」という店が有名だが、大刀伊勢屋もその並びにあったとしたら、第一福宝館まで歩いて3分とかからない場所だ。

大正元年(1912)刊『東京市及接続郡部地籍地図 上卷』掲載の「京橋区」地図(提供・国立国会図書館デジタルコレクション)。第一福宝館の裏には清正公があり、幼少の筈見はこの縁日を楽しみにしていたと『えいが随筆』に記している

筈見の回想を読むと、当時の街は、少年の心をときめかせる娯楽に溢れていたことがわかる。歌舞伎に縁日、プロ野球やプロレス、大相撲の放送。その一つに、活動写真があった。筈見は、第一福宝館で初めて活動写真を見たときのことを、昭和22年刊行の『映画五十年史』で次のように述懐している。

〈今、日活と大映の本社のある京橋交差点近くに、第一福宝館があった。私の家とは目と鼻の間だった。その館の表にかけられた松之助の目玉をむいた絵看板が、私の最初の映画への関心であったであろうか。初めて、ここで映画を見た日、私は館内の暗さに泣き出したことがある。五歳ぐらいの記憶であろうか。〉

この本が書かれた第二次大戦直後、第一福宝館のあった場所は日活と大映の本社に変わっていた。その変遷については後篇で詳しく述ベることにする。なお松之助とは歌舞伎役者で、日本初の映画スターといわれる尾上松之助のことだ。

劇場の暗さに怯えた少年も、年を重ねるにつれ、好みが芽生えてくる。別の著書『えいが随筆』では、第一福宝館のことを〈私の物ごころついた頃には、すでに松之助映画を毎週よびものにして、連続映画や新派をかけて〉おり、垢抜けない印象だったと綴っている。

連続映画とは、いまでいう連続テレビドラマのようなもので、一つの物語を分割して毎週1本ずつ公開していく短編連作映画を指している。新派とは、歌舞伎(旧派)に対し、明治時代に誕生した現代劇のことで、役者たちは映画という新たな世界にも活路を見出していた。生意気な筈見少年にとって、第一福宝館で上映されていた邦画は少々ベタに見えたのかもしれない。そして小学生ともなると、加賀町にあった洋画専門の金春館(現在の銀座七丁目4-17)に遠征したという。

筈見が第一福宝館に足を運んだ1910年代、活動写真は写実から離れ、独自の物語世界を獲得していった時期である。むろん当時、上映されていたのは弁士の語りや楽団の演奏が加わった無声映画だったから、ライブ感のある演劇的要素が多分に含まれていた。よそいきの歌舞伎でもなく、珍奇な見世物でもない。そのちょうど中間に位置する劇場空間として、活動写真館は人々の日常に溶け込んでいったのだった。

参考文献:
桑野桃華『水のながれ 芸苑秘録』聯合演芸通信社、1934年
筈見恒夫『映画五十年史』鱒書房、1947年
筈見恒夫『えいが随筆』平凡出版、1956年
田中純一郎『日本映画発達史Ⅰ』中央公論社、1980年
今村昌平ほか編『講座日本映画1 日本映画の誕生』岩波書店、1985年
花咲一男『川柳江戸名物図絵』三樹書房、1994年
仲田定之助『明治商売往来』ちくま学芸文庫、2003年(初版は青蛙選書、1969年)
田中純一郎著、本地陽彦監修『秘録・日本の活動写真』ワイズ出版、2004年

<執筆者プロフィール>
澁川祐子
ライター。食と工芸を中心に編集、執筆。著書に『オムライスの秘密 メロンパンの謎ー人気メニュー誕生ものがたり』(新潮文庫)、編集・構成した書籍に山本教行著『暮らしを手づくりするー鳥取・岩井窯のうつわと日々』(スタンド・ブックス)、山本彩香著『にちにいましーちょっといい明日をつくる琉球料理と沖縄の言葉』(文藝春秋)など。

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