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〈むかしみらい〉タイムトラベルガイド
TIME TRAVEL GUIDE

|2020.10.26

第二回 町並み案内(前篇) 行き先:明治時代初期の兜町

執筆:澁川祐子


再開発が進む東京駅の東側。オフィスや商業施設が建ち並ぶ八重洲、京橋、日本橋の一帯は、水運、陸運の要衝として開かれて以来、人と物が集まる最先端エリアとして発展してきた――。その歴史を駆動してきた“場”と“人”を追う時間の旅へようこそ。


町並みを変えた明治維新

東京の町並みは統一感がないとよく言われる。大々的に開発された迷路のような商業施設から少し裏手にまわると、時代から取り残されたようにこぢんまりとした昭和のビルが建っていたり、巨大なタワーマンションから少し脇道にそれると、玄関の前に植木鉢が所狭しと並べられている木造一軒家が肩を寄せ合う一画があったり。そしていつもどこかしらで、建物は壊され、ぽっかりと空いた地面をさらし、工事の音が響いている。

だが、そんな新旧をつなぎあわせたパッチワークみたいな町並みならではのおもしろさがある。時代のギャップはそこかしこに現れ、歴史の痕跡は重層的に潜んでいる。歩けば歩くほど発見がある場所なのだ。

では、そんな東京の町並みはいつからつくられていったのだろうか。その転換期となった、江戸から東京へとその名を変えたとき――幕藩体制に終止符が打たれ、近代国家へと歩み始めた明治維新の瞬間までさかのぼってみよう。


銀座だけで終わった煉瓦街計画

銀座の煉瓦街。設計者は幕末に来日し、明治政府のお雇い外国人となったアイルランド生まれの建築家トーマス・ウォートルス。大通りの商店は区画ごとに連なり、歩廊とベランダが設けられた。道幅を広げて車道と歩道とに分け、並木とガス灯を配した点も画期的だった(建築学会編『明治大正建築写真聚覧』1936年/提供・国立国会図書館デジタルコレクション)

明治維新で町の変化といえば、銀座の煉瓦街だ。明治の文明開化のかけ声とともに現れたハイカラな町並み。そんな華やかなイメージをついつい思い描いてしまうが、じつは明治になったばかりの東京はかなりうらびれていた。なぜなら、武家人口の急激な減少による都市の空洞化が起きていたからだ。

参勤交代の役目を解かれた大名や藩士、その家族は国へ帰り、幕府に仕えていた旗本御家人も徳川家に付き従って静岡に移る。100万人を超える江戸の人口のうち、約半数を占めていた武家がこの地を次々と去った。武家に奉公していた者は職を失い、武家を得意先とする町人たちも大打撃を受ける。横山百合子著『江戸東京の明治維新』によれば、幕末には100万人を超えていた江戸の人口は、東京に変わって1年足らずで67万人余りと、3分の1も減ったという。

江戸は身分によって住む場所が細かく指定され、塀をめぐらした武家地、町屋がひしめく町人地、参拝客でにぎわう寺社地と、区画ごとにある程度統一された町並みが保たれていた。それは残された数少ない幕末の写真資料からも見てとれる。

そして、そのじつに7割近くを占める広大な屋敷地からまたたくまに人影が消えたのである。主を失った屋敷は雑草の生い茂る廃屋と化し、代わりに現れたのは、暮らしに困窮する者、狼藉を働く浮浪士たちだった。そこで新政府は、明治2年(1869)に桑茶政策を打ち出す。当時、外貨獲得の手段だった生糸(桑を餌とする蚕の繭から採取する)と茶の生産を奨励すべく、大名屋敷を桑畑、茶畑に変える田園化を構想したのだ。そして実際に110万6770坪が開墾されたが、栽培は思うようにいかず、東京府知事が由利公正に交代した明治4年(1871)には実質的に終わりを告げている。

そんな紆余曲折のなかで持ちあがったのが、明治5年(1872)の銀座大火を発端に始まった銀座煉瓦街計画である。のちに「銀ブラ」という言葉を生み出すほど、町の繁栄に寄与した計画だったが、明治10年(1877)の完成当初は散々な言われようだった。

扱い慣れない建材ゆえの施工上の欠陥があり、雨漏りが多く、湿気がこもり、住みにくい。おまけに高くついた建築コストを払わなければいけない。行政主導でなんとか完成にはこぎつけたものの、裏通りの3分の1は引き取り手がおらず、空き家が目立つ始末。その顛末は藤森照信著『明治の東京計画』にくわしいが、銀座を足がかりに東京を広く近代化した町並みに衣替えしようという新政府の目論見は、新橋~銀座間の町並みを変えるにとどまった。そして以降は、欧風化より防火対策を優先した都市改造が図られていく。

明治14年(1881)に発令された東京防火令では、日本橋、京橋、神田の主要な通りと運河に面した家屋は延焼を食い止めるために煉瓦、石もしくは蔵造にすることが定められる。その結果、多くがこれまで親しんできた蔵造を選択した。銀座の煉瓦街から一転、防火令を機に京橋~日本橋間では昔ながらの蔵造りが建ち並ぶ町並みができあがった。藤森は、前掲書でその景観を次のように言い表している。

〈明治10年、銀座にスタッコ(洋式の漆喰=引用者註)塗りの明るい欧風の街が作られ、そして、20年、重厚な黒漆喰塗りの和風の街が生まれた。新橋からつづく煉瓦の街並みと、日本橋からくる蔵造の街並みがちょうどぶつかる京橋の上を歩いたなら、そこには、近代の日本が引き受けなければならない《異質なものの共存》という都市景観の宿命の一つが、うかがわれるにちがいない〉

新時代と旧時代の並存はそれまでもあっただろうが、そこに西洋というまったく違うものが持ち込まれたことによって異質さは一層、強調されたということだろう。そしてその眺めは、藤森が言うように都市がパッチワーク化していく最初の縫い合わせだったのかもしれない。


水辺に現れた近代日本経済の揺籃の地

左)嘉永2~文久2年(1849~1862)刊『江戸切絵図』より「築地八町堀日本橋南絵図(部分)」(景山致恭ほか編、尾張屋清七版)。当時、兜町の名はなく、楓川沿いに坂本町、日本橋川沿いに茅場町があった(提供・国立国会図書館デジタルコレクション)
右)明治11年(1878)、東京株式取引所の関係者らによって創建された兜神社。牧野藩邸内の鎧の渡し舟付近にあった平将門を祀る鎧稲荷、源義家ゆかりの兜塚をあわせて祀った。昭和2年(1927)に現在地(日本橋兜町1-12)に移転。境内には、奥州征伐に向かう源義家が、兜をかけて戦勝を祈願したと伝えられる岩がある

完成したばかりの煉瓦街が苦戦を強いられる一方で、次々と新たな洋風建築が現れたエリアがある。それが、日本橋川沿いの日本橋一丁目から兜町、茅場町に広がる一帯だ。銀座の煉瓦街が行政主導の計画によって誕生した町並みだったのに対し、こちらは血気盛んな新興企業家たちが集まってきた結果、立ち現れた景色だった。

江戸時代、周囲をぐるりと水路で囲まれたこのエリアは、珍しく武家地と町人地が混在していた。陸揚げされたばかりの材木が林立する楓川西岸(材木河岸、上左図①)から海賊橋(②)を渡ると、楓川(③)と日本橋川(④)が交わる三角地帯が現れる。橋名の由来になった海賊奉行の向井将監(しょうげん)の屋敷跡で、のちに田辺藩牧野氏の上屋敷、文久2年(1862)以降は西尾藩松平氏の上屋敷があった(⑤)。その反対側には町屋が並ぶ坂本町と中小の大名屋敷。鎧(よろい)の渡し舟が行き交う日本橋川沿いの南茅場町には塩問屋や酒問屋の蔵が連なり(茅場河岸、⑥)、その北側には与力同心の組屋敷が並ぶ。

またこの界隈には、俳人の宝井其角(たからいきかく)、地理学者の伊能忠敬(いのうただたか)、儒学者の荻生徂徠(おぎゅうそらい)、国文学者の賀茂真淵(かものまぶち)や村田春海(むらたはるみ)などの文化人が居を構えたことでも知られる。ここでのちに近代日本経済が産声を上げたのも、舟運に恵まれた地の利はもちろん、多様な人々を受け入れてきた土壌があってこそだろう。

ここでも最初のうち、事は行政主導で運んでいた。明治時代になり、武家地が国有化されると、西尾藩邸跡に国内外の商取引を管轄する商法司(のちに通商司)が置かれる。さらに半官半民の通商会社や金融業務を担う為替会社が設立され、商業振興の旗振りが始まった。だが、これらの政策はうまくいかず、通商司は廃止され、会社も解散した。

行政によってまかれた種が企業家たちの手によって萌芽していくのは、明治4年(1871)に西尾藩邸跡が三井、島田、小野の豪商三家に払い下げられてからだ(明治8年に島田組、小野組は破綻し、三井が独占)。まだ名がなかったこの土地は、牧野藩邸跡にあった兜塚にちなんで兜町と命名され、翌年には先の三家によって鎧の渡し舟があったところに鎧橋と名づけた木橋が架けられた。

三井組は日本初の銀行設立を目指してこの地に総力を結集し、明治に入り海賊橋から名が変わった海運橋際に、五層の和洋折衷建築「海運橋三井組ハウス」を明治5年(1872)竣工。しかし土壇場になって三井単独の設立が認められず、日本初の銀行、第一国立銀行は株式公募によって創業されることになる。そして完成したばかりの三井組ハウスは、第一国立銀行に譲渡され、翌年、ここに日本初の銀行が開業した。

2代目清水喜助設計の海運橋三井組ハウス。左の橋は海運橋。ベランダつきの木骨石造の洋風2階建てに青銅瓦の城、さらに最上階には洋風の物見塔がのっている(建築学会編『明治大正建築写真聚覧』1936年/提供・国立国会図書館デジタルコレクション)

この目立つ五層の楼閣はまたたくまに東京の新名所になり、錦絵にも盛んに描かれるようになる。さらに明治11年(1878)、島田組の旧社屋である洋館に東京株式取引所(現・東京証券取引所)が開設されると、大小さまざまな銀行、商業団体、企業がこの地に引き寄せられていく。


最先端の建築が並ぶビジネス街

( )内は、本稿で述べた建物に本社を構えていた期間(M=明治、T=大正)。東京海上保険会社、明治生命保険会社、銀行集会所はその後、丸の内に移転。なお辰野金吾設計の明治生命保険会社の旧社屋は、明治35年(1902)まで三井物産本社として使用された

明治10年代、20年代の兜町、茅場町一帯は、まるで西洋風建築の見本市みたいな町だった。

馬車が行き交う日本橋の大通りから南下すると、江戸橋際には堅牢な煉瓦造りの三角屋根が七棟連なる。明治13年(1880)に建てられた郵便汽船三菱会社の倉庫、通称「七ツ蔵」だ。通りを挟んだ向かいには、日本郵便発祥の地として知られる駅逓寮(えきていりょう、のちに駅逓局と改称)。木造建築に洋風の意匠を凝らした2階建てを設計したのは、官庁舎を数多く手がけた林忠恕(はやしただひろ)である。

駅逓寮までくれば、兜町の入り口である海運橋は目の前だ。石造りのアーチ橋を渡ると、先の第一国立銀行がそびえ立つ。幕末に横浜で西洋建築を学んだ2代目清水喜助設計で、幕末から明治にかけて盛んにつくられた和洋折衷の「擬洋風建築」の代表格だ。東京株式取引所も開業当初は、清水が手がけた元島田組の洋館が本拠地で、5年後に隣へ移っている。

そしてやや時代は下るが、第一国立銀行から日本橋川のほうへ歩いていくと、明治21年(1888)竣工の渋沢栄一邸が目に入る。「近代日本資本主義の父」と言われる渋沢は、念願の銀行と株式取引所の創設を果たすと住まいまで移し、兜町の主となった。その際に水の都よろしくヴェネチアンゴシック様式で建てられた豪邸は、のちに日本銀行本店や東京駅を設計したことで有名な辰野金吾作だ。辰野はこのほかに処女作である銀行集会所、明治12年(1879)に創業した日本初の保険会社である東京海上保険会社、明治14年(1881)創業の明治生命保険会社の社屋も手がけており、兜町は新進気鋭の建築家が力を発揮するための格好の舞台になったのだ。

左)林忠恕設計の駅逓寮。漆喰壁を基調に、角に石をあしらい、洋風に仕立てている。明治21年(1888)に消失
右)右の洋館が渋沢栄一邸。大正12年(1923)の関東大震災で全焼し、飛鳥山に転居(ともに建築学会編『明治大正建築写真聚覧』1936年/提供・国立国会図書館デジタルコレクション)

新時代の幕開けに乗じて一旗揚げようとする青年たちは、瀟洒な西洋風の建物が建ち並び、その間を行き来すれば、なんでもできてしまうことに度肝を抜かれただろう。資金繰りの相談からその調達、投資、貿易の手配から輸送まで、ここに来ればたちまち用が済む。見物がてら町を見て歩いているうちに次第に辺りは暗くなり、帰路につこうとしたそのとき、日本初の白熱電灯がぱっと点く。明るく照らされた洋館をまぶしく眺めながら帰り道を急ぐと、渋沢邸からぽうっと明かりがもれているのが見える。いつかは渋沢のようになりたいと思いながら、彼らはふたたびこの町にやってくる自分を想像したにちがいない。

新しいランドマークが磁場となって人を惹きつけ、モノが集まり、経済が生まれる。それがさらなる引力となって、周囲の町並みを刷新していく。そのプロセスは昔も今も変わらない。それは銀座の煉瓦街のように行政主導で局地的に行われたこともあれば、兜町一円のように資本主義経済の力によっていつのまにか変容していたこともあっただろう。

その後、物資輸送が舟運から鉄道輸送へとシフトしていくにつれ、ビジネスの中心は丸の内へと移っていき、この水辺の地は証券街の道を歩んでいく。だが、平成11年(1999)に場立ちによる株式取引が廃止。東京証券取引所の立会場がなくなると、それまで通りにあふれていた証券マンの姿がいっせいに消えた。加えて平成21年(2009)の株券電子化で、次第にこの場に拠点を構える証券会社も減っていった。そして150年近く経った今、再開発の計画が進められ、町は静かに再生のときを待っている。(後篇に続く)

参考文献:
藤森照信『日本の近代建築(上)―幕末・明治篇』岩波新書、1993年
東京都中央区立京橋図書館編『中央区沿革図集 日本橋篇』東京都中央区立京橋図書館、1995年
石黒敬章編『明治・大正・昭和東京写真大集成』新潮社、2001年
藤森照信『明治の東京計画』岩波現代文庫、2004年
横山百合子『江戸東京の明治維新』岩波新書、2018年
松山恵『都市空間の明治維新――江戸から東京への大転換』ちくま新書、2019年

<執筆者プロフィール>
澁川祐子
ライター。食と工芸を中心に編集、執筆。著書に『オムライスの秘密 メロンパンの謎ー人気メニュー誕生ものがたり』(新潮文庫)、編集・構成した書籍に山本教行著『暮らしを手づくりするー鳥取・岩井窯のうつわと日々』(スタンド・ブックス)、山本彩香著『にちにいましーちょっといい明日をつくる琉球料理と沖縄の言葉』(文藝春秋)など。

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