執筆:澁川祐子
再開発が進む東京駅の東側。オフィスや商業施設が建ち並ぶ八重洲、京橋、日本橋の一帯は、水運、陸運の要衝として開かれて以来、人と物が集まる最先端エリアとして発展してきた――。その歴史を駆動してきた“場”と“人”を追う時間の旅へようこそ。
最先端の百貨店で開かれた「現代日本民藝展覧会」
一帯を焦土と化した関東大震災から10年、復興を遂げた日本橋に新たなランドマークが誕生した。昭和8年(1933)3月、日本橋通二丁目(現在の日本橋二丁目)に開店した髙島屋東京店(現・日本橋髙島屋S.C.本館)だ。
髙島屋東京店は、もともと南伝馬町一丁目(現在の京橋一丁目)にあった。関東大震災で倒壊は免れたものの、その後の火災で全焼。被害を受けなかった筋向かいの千代田館(現在の京橋トラストタワーがある場所)での仮営業を経て、南伝馬町の跡地に新店舗を再建していた。だが、手狭だったこともあり、震災直後から移設を計画していたのだった。
創建時の名称は日本生命館。日本生命が建設し、髙島屋はテナントとして営業を始めた形だった。和洋折衷の意匠を凝らした建物は地下2階、地上8階。中に入ると、1階は吹き抜けのホールで、イタリアから取り寄せた珍しい大理石の柱が並び、豪華なシャンデリアがきらめく。そしてなんといっても目玉は、国内の百貨店としては初めて全館冷暖房完備だったことだ。当時の人々にとって、それがいかに衝撃だったか、ちょっと耳を傾けてみよう。
〈一足、髙島屋に足を踏入れたトタンに、私はオドロイた。まるで、此処(ここ)だけは別天地なのだ。
涼しい、まったく涼しい!
此処には一人として、暑さにウダった顔をしているものがない。客も、店員も、まるで漁りたての鮎みたいだ。それでいて、窓という窓は、全部ピッタリと閉ざされているのが不思議だ。〉
これは、朝日新聞が昭和8年の夏に企画した「漫談広告」紙上で、漫談家の徳川夢声が髙島屋を取りあげた断片だ。話はその後、冷房システムについて詳細に解説している。題して「軽井沢まで十五分」。真夏でも涼しい髙島屋は、15分で行ける避暑地だとアピールしたのだ。
そんな時代の最先端をゆく空間が、一見、時代遅れにも見える地方の生活道具で埋め尽くされた。新築開店の翌昭和9年(1934)11月に開かれた「現代日本民藝展覧会」である。出品数は1万数千点、8階のワンフロアをほぼ使うほどの物量だった。
当時の新聞広告には〈柳宗悦、河井寬次郎、濱田庄司、B・リーチ、芹澤銈介諸先生を中心とする日本民藝協会が全国的に蒐集(しゅうしゅう)した民芸品一万数千点を陳列大即売〉(昭和9年11月16日付『東京日日新聞』)とある。民藝を唱えた張本人たちが選りすぐった品々をその場で買えるとは、いまにしてみればなんと贅沢な会だろうか。さらには、バーナード・リーチが設計した書斎、濱田庄司が考案した食堂、河井寬次郎が手がけた台所といったモデルルームの設置、山形天童の将棋の駒や岩手のホームスパンの紡毛と機織り、宮城の郷土玩具の木地挽きと彩色といった実演まで予告されている。実際には、これらの実演に栃木烏山の紙漉きも加わった。
民藝好きならば、近年、東京と大阪の髙島屋で開かれている「民藝展」を思い出すかもしれない。筆者自身、開催を楽しみにしている一人だ。展覧会と民藝品の即売会がセットとなったこの催事は平成24年(2012)を皮切りに回を重ね、今年8月から9月にかけ、5度目となる開催が決定している。その源流となった展覧会が、民藝の歴史を語るうえでも外せない「現代日本民藝展覧会」なのだ。このときも東京で開かれた翌昭和10年(1935)、髙島屋大阪店でも同展は開催されている。
時を経て復活し、いまなお語り草となっている髙島屋の「現代日本民藝展覧会」。「民藝」という新しいものの見方が広まっていく昭和初期と現代とをつなぐその舞台裏へと足を踏み入れてみよう。
果てしなき民藝探しの旅
民藝運動を主導した宗教哲学者の柳宗悦は、機関誌『工藝』47号(1934年11月、日本民藝協会)の冒頭で次のように綴っている。同号は「現代日本民藝展覧会」の開催を記念し、展覧会のカタログとして会場でも販売された。
〈多少の知識は整ってはいたが、実際何が出て来るかは知る由がなかった。私達は日本の各地に生い育った民藝品を索(もと)めて長い旅を続けた。北は津軽から南は薩州にまで及んだ。固(もと)より古い作物の探索ではない。現に何が作られているかを知る為であった。〉
「民藝」という言葉が、柳宗悦、陶芸家の濱田庄司と河井寬次郎らによって生み出されたのは大正14年(1925)のことだ。それまで人々が何気なく使っていた、手仕事による生活用具に美しさを見出し、「民衆的工藝」、略して「民藝」と名付けた。翌年には民藝品を保存、展示するための美術館の設立を目指し、『日本民藝美術館設立趣意書』を発表した。だが、実際に日本民藝館が東京・駒場に開館したのは昭和11年(1936)、宣言から10年が経っていた。
10年という長い準備期間は、生まれたての「民藝」という言葉が賛同者を得て、生活文化運動へと変化していく時期でもあった。この間、柳らは展覧会の開催、機関誌『工藝』の出版、民藝店の開店、さらには一連の活動でつながったネットワークをもとに日本民藝協会を立ち上げるなど、忙しく動きまわった。なかでも一つの柱となったのが、展示と即売を兼ねた百貨店での展覧会だ。
全国各地におもむき、まだ見ぬ民藝を探す旅を重ねるなかで、柳らの目線は古いものから、いまなおつくり続けられているものへと向いていく。さらには新たに加わった仲間とともに「新作工芸」を発表するようになった。現行品や新作を普及させるためには展示ばかりでなく、販路が必要だった。
当時は、百貨店の大衆化が進んだ時代だ。大正から昭和の時代を通じて鉄道は全国に伸び、都市と農村とが結ばれていった。工業化が進み、都市で働く人々が増えるなか、老舗百貨店は地方都市へと進出し、鉄道駅にはターミナルデパートが次々と開店した。髙島屋が手がけた10銭均一の店「10銭ストア」が評判を呼ぶなど、人々にとって敷居の高い高級店からちょっと贅沢をしに行く身近な存在になっていた。民藝を広めたい柳らにとって、そんな百貨店は絶好の発表の場だったのだ。
百貨店での展覧会は松坂屋や白木屋でも開かれたが、もっとも関係が密だったのが髙島屋だ。昭和7年(1932)5月に大阪髙島屋で「山陰民藝品展覧会」が開かれ、好評を受けて同年10月ふたたび大阪、続いて11月に京都の髙島屋で同展覧会が開催された。翌昭和8年(1933)にはオープンしたばかりの東京髙島屋で「新興工芸総合展覧会」、大阪髙島屋で「総合民芸展覧会」が開かれている。続いて計画されたのが、冒頭でふれた「現代日本民藝展覧会」だった。
髙島屋と民藝とのつながりには、よき理解者の存在があった。東京店の宣伝部長であり、のちに総支配人になる川勝堅一である。川勝は大正10年(1921)に河井寬次郎と知り合い、生涯にわたり親交を結んだ。同年に河井の初個展を南伝馬町の髙島屋東京店で開いて以来、髙島屋は河井が新作を発表する場となり、晩年まで東京と大阪の髙島屋の個展は続いた。川勝もまた、河井との出会いを通じて民藝を知り、その応援団となった一人だった。なお、川勝が集めた河井作品は現在、京都国立近代美術館に「川勝コレクション」として収蔵されている。
それまでも各地を民藝調査に訪れていた柳らだったが、「現代日本民藝展覧会」で予定された規模は前代未聞だった。やきものに絞るでもなく、地域を限定するわけでもない。大がかりな計画を前に、どれほどのものを集められるかわからぬまま、旅に出た。収集旅行が始まったのは昭和9年(1934)5月、栃木県栗山地方の旅からだ。そこから10月まで、柳はその都度、都合がつくメンバーとともにせわしなく各地を歩いた。
7月には小諸から松本、諏訪に至る信州の旅を終えた3日後には、富山、南砺から岐阜、静岡の袋井へと抜ける旅へと出発。8月上旬には岩手を中心にまわり、8月下旬には姫路から鹿児島まで中国、九州地方をめぐった。そして8月終わりから福島、山形、秋田、青森へと出かけ、9月中旬からは四国へ。10月に入っても仙台から鳴子、岩手山へと北上する旅を決行している。だが、それでも不十分で、柳は静岡県浜名郡で染織の仕事に従事する外村吉之介と甥の柳悦孝に、7月18日付の手紙で〈到底一人では廻りきれない それで君達二人で一週間乃至十日程旅行してもらえないだろうか、費用は全部お送りする〉と協力を求めた。結果、彼らは8月に柳の息子である宗理、宗玄(むねもと)とともに伊勢、和歌山を手分けしてまわっている。
途中、空路を利用したり、船に乗ったりすることもあったが、ほとんどが鉄道を使い、そこから先は車を手配してめぐった。車が通れない道を行くときは、馬を使うこともあった。現地の案内人の手引きで各地の商工奨励館や窯場、工房はもちろん、荒物屋や古道具屋を逐一、のぞいてまわる。ときに駅弁と一緒に買った汽車土瓶の出来に喜び、空の土瓶を求める一幕もあった。
そうして一つひとつ選び取られた各地の民藝品が続々と髙島屋へと運び込まれた。集まった膨大な品々を前に、柳らは安堵と喜びを味わった。川勝は、そのときの達成感に満ちた柳らの様子を後年、次のように回想している。
〈幾千点とも数えきれない蒐集品が髙島屋倉庫に積みこまれた。先生方は、その山なす蒐集品を眺めて欣喜雀躍(きんきじゃくやく)、よかったよかったと満足感の溢れた柳先生の笑顔、熱狂の河井先生、ユーモラスたっぷりな表情で両手を挙げてよろこぶリーチ先生、冷静そうに見えても顔に隠しきれず、思わずリーチ・河井先生の手をとって喜悦満面の浜田先生。〉(「民藝館の門出と髙島屋」『民藝』1978年2月号、日本民藝協会)
集った面々のキャラクターが浮かんでくるような描写だ。川勝曰く、陳列に5日ほどかけて展覧会は無事、東京の中心・日本橋で開催を迎えた。
過去に学び、未来につなぐ民藝展
では、実際の展覧会場はどのようなものだったのだろうか。残された写真を手がかりに、会場内を散策してみよう。
会場は、瓦屋根がのった白壁の塀で仕切られ、塀の前からすでに大甕(おおがめ)や大鉢がゴロゴロと床に置かれている。会場内に入ると、小型の箪笥、それに甕や鉢、壺が目に飛び込んでくる。展示台にぎっしり並べられた小皿や小鉢の類。わっぱや漆器、さじなど大小の木漆工品を集めた台に、錠前から大鍋、五徳、刃物までこまごまと金工品が並ぶ台もある。壁際にはずらりと掲げられた北国の蓑やけらが華を添え、手前にはかごや、ざる、箒などの編組品が陳列されている。染織品が並ぶスペースもあれば、座布団や団扇、凧、馬具といったものもある。目を引くのは「日本民藝分布現状略図」と題された展示だ。壁に掲げられた地図から紐が伸び、産地と現物を結びつけて示す。黒い線は、旅した軌跡の一部を表しているのだろうか。二次元の図を三次元でわかりやすく表そうとしたこの試みに、会にかける柳らの意気込みが伝わってくる。
なかでも一番の見どころは、3種のモデルルームだ。濱田設計の食堂は、暖炉やテーブル、椅子といった西洋のしつらえに、サイドボードとして階段箪笥をあわせたところがポイントだろう。河井設計の台所は、畳敷きの小上がりを取り囲むように調理台や火気、水場を配した贅沢な造り。リーチ設計の書斎は、床の間をアレンジし、一方につくりつけのデスクと書棚、他方に座卓を置き、効率よく和洋折衷を実現している。
もっとも柳らにとってモデルルームを手がけたのは初めてではない。昭和3年(1928)に東京・上野で開催された「大礼記念国産振興東京博覧会」では、柳が設計した木造平屋建ての一軒家で理想の暮らしを具現化した「民藝館」という名のパビリオンを出展した経験があった。室内装飾を強みとしてきた髙島屋もまた、いち早く1920年(大正9)に家具装飾陳列会を催し、モデルルームの展示を取り入れていた。ただ、当時のモデルルームを見ると、思った以上にすっきりとしていてモダンだ。対して民藝展の3部屋は、古臭く見えなくもない。はたして評判はどうだったのだろうか。
昭和10年(1935)4月25日付『大阪毎日新聞』には、翌年の大阪店での会期中に「埋もれた民藝の美しさ これを都会へ取返したい 教えられる興趣の民藝展」と題した記事が載った。そこでは〈都会人には驚きと教訓とを与えることの多い展観である〉と好意的に書かれている。川勝の先の回想でも〈一般の愛好家の皆さんが、我れ先にと押しかけて大盛況、大好評を博した〉と記されていた。
民藝の品々は、都会に暮らす人々にとって離れた故郷を想起させる、たしかな暮らしの手ざわりを感じさせるものだったのだろう。さらに、それらが椅子やテーブルなどの西洋家具とともに並べられることで、かつて柳らが農村や街の片隅で見出した鉢や皿に感嘆したように、新鮮な眼でその魅力を見直すきっかけになったはずだ。いまの私たちと同じように、訪れた人々が思い思いに気に入った壺やざるを大事に抱え、日本橋の通りに消えていったのだと思うと、90年あまり前の人々が急に身近に感じられる。
川勝はくだんの回想で、この展覧会の内幕も語っている。髙島屋は、収集にかかる旅の経費、買い物代金を前渡し金として首尾よく準備し、先生方のバックアップに徹したこと。そして集まってきたもののなかから何度かの選別を経て、優品を新しくできる民藝館に納品し、それ以外の品々でもって民藝展が開かれたこと。結果、〈髙島屋としては、当初から損金覚悟で奉仕したのであるが、民芸館にあれだけの陳列品を納入することが出来、しかも実質損も催し費予算でOK、そして大評判、大人気を頂いた〉と万事うまくいったことを先生方に感謝して締めくくられている。
広範囲な調査と、そこで見つけた収蔵品。また、各地に散らばる仲間との連携を深め、新たに一般の支持者を得ることにも成功した。「現代日本民藝展覧会」は、日本民藝館が開館する前夜のいわば総仕上げともいうべき展覧会だった。
先のカタログも兼ねた『工藝』47号で、柳は失われゆく手仕事の現状にふれ、〈新しい民藝の勃興は未来に期待しなければならない〉と言い切った。そのためには古いものをそのまま使うのではなく、古きに学び、その材料や手法、腕前を新しい用途へと振り向けていくことを説いている。
コロナ禍で行われた令和2年(2020)の民藝展では、現代の暮らしにあった民藝のコンセプトルームが提案された。さらに今年行われる同展では「柚木沙弥郎と仲間たち」と題する展覧会が予定されている。柚木沙弥郎氏は芹沢銈介に師事した染色家で、今年100歳を迎えてなお創作を続け、幅広い世代に人気だ。展示のキーワードは「仲間」である。「自分だけではなく、ともに歩んだ仲間も取りあげてほしいというのが柚木氏たっての願いだった」と、髙島屋の企画宣伝担当次長を務める佐藤耕氏は語った。民藝を提唱した柳らを第一世代だとすると、柚木氏とその仲間は第一世代から直接教えを受けた、いわば第二世代のつくり手だ。柳が仲間とともに新たな美を追求したように、彼らもまた同世代と鼓舞しあい、手を動かしてきた。民藝が運動と呼ばれるゆえんだ。
受け継がれ、未来へと手渡されてきたものづくりと、人とのつながり。舞台となる日本橋髙島屋もまた、昭和8年に完成した建物を手直ししながら、その姿をいまに伝えるものだ。柳らが奮闘した当時の空気を色濃く留めたこの場所で、また今年も未来への模索が続く。
※原文の引用にあたっては旧字、旧仮名遣いを一部、現代表記に改めた。
参考文献
東京朝日新聞社広告部編『広告漫談』朝日新聞社、1933年
『民藝』1973年11月号、1978年2月号、日本民藝協会
高島屋150年史編纂委員会編『髙島屋百五十年史』1982年
柳宗悦『柳宗悦全集 第21巻中』、『柳宗悦全集 第22巻下』筑摩書房、1989年
山本武利、西沢保編『百貨店の文化史』世界思想社、1999年
「暮らしと美術と髙島屋」展図録、世田谷美術館、2013年
志賀直邦『民藝の歴史』ちくま学芸文庫、2016年
(催事情報)
「民藝展」
URL: https://www.takashimaya.co.jp/store/special/mingei/index.html
大阪店
会期:2023年8月23日(水)〜28日(月)
会場:大阪髙島屋7階特設会場
日本橋店
会期:2023年9月6日(水)〜18日(月・祝)
会場:日本橋髙島屋S.C.本館8階特設会場
同時開催
「柚木沙弥郎と仲間たち」
URL: https://www.takashimaya.co.jp/store/special/yunokisamiro/index.html
主催:NHK財団、日本民藝館 協力:日本民藝協会
大阪店
会期:2023年8月23日(水)〜9月3日(日)
会場:大阪髙島屋7階グランドホール
日本橋店
会期:2023年9月6日(水)~25日(月)
会場:日本橋髙島屋S.C.本館8階ホール
※両展とも入場時間、入場料について詳しくは特設サイトをご覧ください。
<執筆者プロフィール>
澁川祐子
ライター。食と工芸を中心に編集、執筆。著書に『オムライスの秘密 メロンパンの謎ー人気メニュー誕生ものがたり』(新潮文庫)、編集・構成した書籍に山本教行著『暮らしを手づくりするー鳥取・岩井窯のうつわと日々』(スタンド・ブックス)、山本彩香著『にちにいましーちょっといい明日をつくる琉球料理と沖縄の言葉』(文藝春秋)など。