かつて京橋三丁目と銀座一丁目の間を流れていた京橋川の水運を利用して、江戸時代から昭和初期まで存在したという青物市場「大根河岸」。その跡地付近に建つ小さなビルの内部で、最先端の「植物(野菜)工場」が稼働していると聞けば、両者に不思議な縁を感じる人も多いのではないだろうか。
野菜の生育に欠かせない要素を完全に近い形でコントロールできるという、世界初のテクノロジーを取り入れた植物工場の名は「PLANTORY tokyo」(中央区京橋)である。研究施設も兼ねたこの場で現在行われている刺激的な取り組み、そして「京橋」と「植物工場」を結んだ縁について紹介しよう。
「閉鎖式」の栽培装置と独自の制御システムで、従来型の5倍近い収穫を実現
そもそも「植物工場」という言葉に、馴染みがない人も多いだろう。私たちが口にする野菜は、古代から行われている露地栽培など、多様な方法によって栽培されてきた。その中でも、20世紀以降に確立された新しい栽培方法が、光、水、空気といった生育に必要な環境を人工的に制御する「工場栽培」だ。そして、工場栽培を行うための施設を「植物工場」と呼ぶ。
植物工場は、ハウス栽培の進化系とも呼べる「太陽光型」と、LEDなどを利用する「人工光型」に大きく分類される。PLANTORY tokyoは、人工光型の中でも、特にユニークな「閉鎖式」の栽培装置を主体とする植物工場である。
PLANTORY tokyoに設置されている「Culture Machine」と名付けられた栽培装置の外観は、窓ひとつないコンテナそのものだ。説明を受けなければ、この中で野菜が育てられているとは誰も思わないだろう。
「ご覧のように栽培装置は密閉されており、中の様子を直接見ることはできません。室内に設置された装置にもかかわらず、なぜさらに密閉しているのかといえば、植物の生育環境を緻密に制御したいからなんです」。
と教えてくれたのは、PLANTORY tokyoを開設した株式会社プランテックス代表取締役である山田耕資さん。農業とは無縁のエンジニア出身ながら、食糧不足や環境問題など、人類が抱える課題の解決に貢献する可能性を持つ植物工場に魅せられ、仲間とともに2014年から「Culture Machine」や、植物工場の総合環境制御システム「SAIBAIX」の開発を続けている人物である。
「同様に人工光を利用している場合でも、密閉されていない植物工場ですと、たとえばエアコンの配置などにより、施設内でも5度くらいの気温差が生じることがあります。気温が1度違えば、収穫量が10パーセント近く変動する場合もあり、5度の差は見逃せません。このほかにも、水温や空気の流れなど植物の生育に影響を与える要因は多岐にわたります。それらをより緻密に制御するため我々が開発したのが、均質な環境を維持する『閉鎖式』の栽培装置と、そのメリットを最大限に発揮させる総合環境制御システム『SAIBAIX』です」。
Culture Machineというハードウェアに対し、最先端の植物工場を実現するために欠かせないソフトウェアにあたるSAIBAIXは、気温や水温、空気の流れや光合成速度など、植物の生育に影響を及ぼすと考えられる要素を、約20のパラメータと200以上の指標で管理するクラウド型のシステムだ。
安定した収穫と品質だけでなく「植物工場でしか栽培できない野菜」も生み出せる
「ハードウェアとソフトウェアの両方を自社開発したことで得られた成果は、大きく2つあります。ひとつは、収穫量の増加。レタスの場合ですと、従来の植物工場に対し、同じ栽培面積で5倍の収穫を得ることができました」。
これまで、植物工場の課題は主に施設のコストと考えられてきた。しかし、従来の5倍の収穫が得られるCulture MachineとSAIBAIXを導入すれば、施設のコストが相対的に下がるだけでなく、閉鎖式のメリットを活かし、より安定した生産が行えることになる。つまり、低コストで均質な野菜の安定供給という、植物工場が食糧問題の解決に貢献するための条件が整うわけだ。
「同じ栽培面積で5倍の収穫が得られるということは、環境負荷の低減にもつながります。つまり地球に負担をかけず、食糧問題の解決を実現する可能性を私たちの植物工場が持っているといえるのです」。
とはいえ山田さんによれば、収穫量の向上はプランテックスが手がける植物工場で得られた成果のひとつに過ぎないという。
「もうひとつの重要な成果は“植物工場でしか栽培し得ない”野菜の実現です。新しい野菜を開発する場合のハードルとなっているのが、実験室と量産の現場で同じ環境条件が再現できるという『再現性』でした。閉鎖式のCulture MachineとSAIBAIXの組み合わせなら、実験用の小型栽培装置と量産用の大型栽培装置との間で非常に高い再現性を保つことができるんです」。
たとえば、特定の成分が豊富に含まれる野菜を開発し安定生産すれば、医薬やサプリメントの原料として役立てることが可能になる。もちろん、甘味や食感など食用としての魅力を磨きあげた野菜を産み出し、世に届けることも可能だ。
「大根河岸」の歴史を最先端技術で受け継ぐ、夢のある構想も
このように、さまざまな可能性を持つ植物工場PLANTORY tokyoが、京橋に設立されたのは2019年のこと。いったいなぜ、この地が選ばれたのだろうか。
「実は、原型となる装置やシステムは別の場所で2018年に完成していたのですが、その場所で野菜を育てることがルール上難しいということが発覚しまして。そこで移転先を探していたところ、食関連のベンチャーを支援する東京建物さんからお声がけいただき、現在のビルを紹介していただきました」。
いわばケガの功名といったところだが、奇しくも移転先のビルは「大根河岸」跡地(記念碑)から、歩いても数十秒という至近。山田さんは、その点にも深い縁を感じたという。
「江戸・東京で暮らす人々に青物を供給していた場で、最先端の植物工場を設け野菜を育てることになるなんて、とても不思議だし、なによりエキサイティングですよね。PLANTORY tokyoが私たちの活動のショールームとしても機能する点は、アクセスのよい京橋に施設を構える大きなメリットですが、この地がかつて大根河岸を擁した食の発信地であることも、最大限に活かしていきたいと思っています」。
そこで注目すべきが、閉鎖式のCulture MachineとSAIBAIXの組み合わせにより実現可能となる“植物工場でしか栽培し得ない”野菜だ。
「まだ構想の段階ですが、いわゆる“江戸野菜”の栽培に興味を持っているんです。菜っ葉やダイコン、ニンジンなど、江戸の近郊で栽培されていた野菜たちの多くは、土地の問題や栽培の難しさなどから、次第に忘れられていきました。しかしPLANTORY tokyoでなら、そうした栽培が難しい野菜を、量産できるかもしれません。すでにここで生産したレタスを、都内のスーパーで試験的に販売しているのですが、ゆくゆくは食の発信地だった『大根河岸』の跡地から、ふたたび江戸野菜を届けることができればと考えています」。
無機質なイメージが先行する植物工場での野菜生産だが、そのメリットを活かし、露地やハウスでは栽培や量産が難しい野菜を育てるには、まさに恰好の環境となる。今では、なかなか手に入れる機会がない江戸野菜が、昔のように気軽に手に入る時代が来るかもしれないとは、なんとも夢のある話だ。
また、植物工場が外的環境の影響を受けにくいという点では、現在のコロナ禍も、植物工場の意義を考えるうえで、重要な機会になったという。
「植物工場自体は、もともと災害に強い性質を持っているので、今回はあらためて野菜の安定生産ができるという強みを再確認しました。コロナ禍のような状況では、従業員や配送における安全確保の問題は残りますが、安全・安心な食べ物を供給するライフラインのひとつとして、植物工場の存在が、今後はさらに注目されるのではないでしょうか」。
PLANTORY tokyoにおける研究や開発は大詰めを迎えつつあり、Culture Machineの量産化に向けた準備も着々と進んでいるとのこと。最先端の植物工場で生産された野菜を、近所で気軽に手に入れることができる日も、遠い未来ではなさそうだ。
関連サイト
株式会社プランテックス http://www.plantx.co.jp/
執筆:石井敏郎、撮影:森カズシゲ