東京・京橋に軒を構えるインド料理店、BOMBAY SIZZLERS(ボンベイシジラーズ)。そのオーナー、ジミーさんの経歴には驚かされる。ムンバイ出身のインド人にして、就職後にジャカルタで3年、サハリンで8年、北海道で13年インドレストランを手掛けてきた。そして2021年9月、京橋に移転。
このダイナミックな移住人生は、どんな経緯で生まれたのか。そして、なぜ東京にたどりついたのか。ジミーさんの話を聞くほどに、同店で提供するのが、インド料理を超えたものであることに気付かされる。
「その土地で初めてのインド料理店」のアイデアに興奮
ジミーさんのこれまでの移住人生は、いわば「まだそこにないもの」を提供するワクワクに突き動かされた旅だった。
インドのムンバイ(旧ボンベイ)で生まれ育ち、ムンバイの大学でIHM(インディアン・ホテルマネジメント)を学んだジミーさんは卒業後、ムンバイのホテルに就職。そこで約3年働いた後、インドネシアのジャカルタに移住。遠い親戚がレストランを立ち上げるのを手伝うためだった。結局ジャカルタでも3年ほど働くことになったが、そのなかである運命的な出会いを得る。
「店を気に入って常連となったアメリカ人に、こう誘われたんです。『今度ロシアのサハリンで、一緒にインド料理店をやらないか』と。サハリンに視察に行ってみると、石油や天然ガス関連の世界的企業で働くたくさんの外国人がいる一方で、道路や交通機関、そしてレストランがまだ満足に整っていませんでした。そんな場所で、外国人やロシア人に高品質のインド料理を提供するアイデアは、私をとても興奮させました」。
こうしてサハリンで手掛けたレストランは、すぐに多くの人が訪れる店となり、同地にいた8年の間、市内でもっとも人気のレストランであり続けた。そして、ジミーさんが次なる場所として選んだのが、北海道だった。
「サハリンの生活には満足していましたが、息子たちが英語を習得できるインターナショナルスクールがなかったので、旅行で訪れてよく知っていて、インターナショナルスクールのあった札幌に移り住むことにしたんです」。
そこでもジミーさんは、開店前に得がたい体験をする。
「知り合いの紹介で、札幌と旭川の中間にある岩見沢市の物件をレストラン用に押さえたのですが、その後何人もの日本人の友達から『寂しい場所だからやめた方がいい』と言われたため、心配になって物件の大家さんに相談しに行ったんです。
ところが岩見沢までの道を迷ってしまい、地元の人に道を聞いたところ…なんとコンビニのスタッフにも、タクシーの運転手さんにも、同じことを言われたんです。『岩見沢にインド料理店を開く人ですよね?』と。当時は近隣にインド料理店がなかったこともあり、インド料理店ができることが話題になっていて、みんなが楽しみにしているとのことでした。
さらには相談した大家さんからも、自分の物件にインド料理店が入ることを非常に誇らしく思っていると言われました。私の気持ちは、固まりました。こんなに待ってくれている人たちがいるのなら、赤字でもいいからやりたい!と」。
出店したレストランが軒並み「ランキング1位」に
ジミーさんを突き動かした“ワクワク”は、またも好結果を呼ぶことになる。岩見沢で始めたBOMBAY BLUEは人気となり、後に全国を対象とした「食べログ百名店」に選出されるまで。続いてニセコの外国人観光客向けに倶知安町にも、ゴージャスなインド料理店・BOMBAY SIZZLERSを開店。こちらもトリップアドバイザーのランキングで何年にもわたり、倶知安町約200店中の1位を獲得し続けた。
他にも澄川、野幌にも店を出すなど、道内で最大5店舗まで事業を拡大。さらには、イベントやショッピングモールなどにも、インド料理のキッチンカーを出店した。こうして北海道での事業もいたって順調に進んだが、その13年目、ジミーさんはさらなるチャレンジを決断する。それが東京・京橋への移転だった。
「東京は間違いなく日本の中心ですし、私は大都会のムンバイ出身なので、郷愁感もあります。だから、いつかは必ず東京で店をやりたいとずっと考えていました。そんななか、息子たちの学業が落ち着き、一方でコロナ禍で北海道の店が思う通りに営業できなくなりました。それならひと思いに東京一本で勝負してみようと」。
こうしてジミーさんは岩見沢店を閉店し、コロナ禍で休業中のニセコ店のみを残して、東京へ移住。東京店の場所に選んだのは、京橋の大型複合施設・東京スクエアガーデンの1階だった。
「東京駅からすぐで、他にも最寄り駅がたくさんある。六本木や渋谷、あるいはインド人の多い御徒町や西葛西からもアクセスしやすい。そして1階にあり、駐車場も完備している。インドレストランをするうえで、完璧な場所だと感じました」。
2021年9月、BOMBAY SIZZLERS 東京店がオープン。やはり東京においても、「まだそこにはないもの」を提供することが、ジミーさんのモチベーションの源泉となっている。
「力を入れたのが、メニューのバリエーションです。スープ&サラダ、前菜、タンドール料理、カレー、パン類、米料理に至るまで、これだけ品数の多いインド料理店は、東京にはまだほとんどないと思います」。
さらにジミーさんはこう言う。
「当店では、メニューに載っていないインド料理も、リクエストがあれば可能な限りご提供します」。
たとえば、インドの屋台料理だ。高級インド料理店で屋台料理=ストリートフードを出すのはかなり意外だが、実際に故郷を懐かしむインド人や、インドを旅した日本人、ネットを見て知った日本人などからリクエストを受け、店で屋台料理を提供することが少なくないという。
「他にも、さまざまなメニュー外料理をご提供しています。その一つが、ジャイナ教徒向けの料理です」。
「お金ではなかなか買えないもの」が買える場所
「ジャイナ教徒は戒律上、玉ねぎ・にんにく・生姜といった根菜類が食べられません。それらを使わないでどうカレーを作るの?とも思われるかもしれませんが、幸い私たちにはそのノウハウがあるので、対応可能です。彼らは外食する場所に常に困っており、私たちの料理を食べたジャイナ教徒の多くが『こんなオプションがある店は、東京にはなかった』と喜び、常連になってくれます。
他にもベジタリアンやビーガン向けはもちろん、イスラム教徒、厳格なヒンズー教徒、さらにはグルテンフリーの食事を求める方に向けた料理もご提供しています」。
こうした料理を具現化するのに欠かせないのが、ジミーさんの夫人・ジャルパ・ジーテンドラさんの存在だ。
幼少からインドの実家で料理を学び、ジミーさんと学生結婚した後も、旺盛な探究心で幅広い料理を習得してきた。自ら店の厨房に入るだけでなく、各地から厳選素材を仕入れる食材担当としても、料理のクオリティーを支えてきた。料理は彼女の表現方法の一つであって、メニュー外の料理を作ることにも大きな喜びを覚えるという。一般的にインド料理店では、女性が厨房に入り調理を行うことは、かなり珍しい。
そんなBOMBAY SIZZLERS 東京店には、早くもインド大使館の高官や宝石商などインド人常連客が付き、昼時は近隣のオフィスで働く日本人客で満席になる日も少なくない。50人を超える規模のパーティーが開催され、参加者が一体となってダンスに興じる日もある。
ジミーさんが同店で提供する本質的な価値とは、いったい何なのか。
「つきなみではありますが、食べ物を通して人々の生活を作り、さまざまな人たちをつなげる。それが、私たちが社会に提供する価値だと思います。私は、一つの食事が1日を左右することを、よく理解しています。またこれまで幾度となく、お客さまにとっても私にとっても得がたい出会いが、レストランで生まれるのを見てきました。お店で初めてデートし、後に結婚して家族が増えていくのを見ることは、無上の喜びです。
たとえ小さな方法であっても、私たちにとっては食事を提供することが、世界を良くする最善の方法なんです」。
ジミーさんには、長いレストラン人生で、忘れられない場面がある。
「岩見沢店を閉店する時、フェイスブックのみでひっそり告知したにも関わらず、各地から常連のお客さまが会いに来てくれました。ご高齢の方も多かったのですが、そのうちの何人かが泣いてくださって。私も『寂しいなー』という感じで、泣いてしまいました。あの時のことは、死ぬまで忘れないでしょう」。
「まだそこにはないもの」をもたらしてくれる店。1日を、より良いものにしてくれる店。人との得がたいつながりをもたらす店。ジミーさんのレストランは、そうした「お金ではなかなか買えないもの」が買える、稀有な場所かもしれない。
※メニューにない料理は、ディナータイムでの提供となります。内容は事前にお店とご相談ください
執筆:田嶋章博、撮影:島村緑