天ぷら、寿司、蕎麦と並び、江戸の屋台料理として人気を博した鰻。かつて江戸湊で捕れた鰻は「江戸前」と呼ばれ、蒲焼きは江戸っ子の大好物となった。天然ものを手に入れることはおろか、絶滅さえ危ぶまれる現在、もはや昔の「江戸前」の定義を純粋に満たすことは不可能だ。
だが、たとえ素材は違っても、江戸前の仕事を受け継ぐことはできる。現代における江戸前の鰻を再構築しようと挑戦を続けるのが、八重洲にある1947(昭和22)年創業「鰻 はし本」の4代目を継ぐ橋本正平さんだ。
改革のヒントは江戸前の原点にあった
東京駅八重洲北口からほど近い、飲食店がひしめく狭い路地。そこに昔ながらの風情が残る木造2階建ての「鰻 はし本」はある。
うな重を注文すると、お新香がすぐに出てくる。鰻と相性がいい奈良漬け、たくあんと自家製のぬか漬けが品よく盛りつけられた、小さいながらもちゃんとした一品だ。それからゆっくり待つこと20分弱、塗りのお重が運ばれてくる。
お重のなかには、熱々のご飯の上に焼き目のついた鰻の蒲焼き。すっきりとした香ばしいタレが、ふっくらとやわらかい鰻と粒立ったご飯とを引き立て、一つの味にまとめあげる。
新型コロナの影響でかつてほどの行列はないものの、昼時ともなれば次から次へと客が入ってくる。生産者と直接つながり、土用の丑の日にはあえて営業しない。業界の常識を覆してきた鰻屋は、この状況にあっても、美味しいものを食べたいという人でにぎわう。だが、橋本さんが24歳で店に入った18年前、「明日の営業もわからないほど、経営は厳しかった」と語る。
「もともと鰻屋は、夏は忙しく、冬は閑散とする商売。しかも当時はバブルが崩壊し、接待などで無条件に使ってくれていた企業のお客さんが減り、このままではやっていけないという危機感がありました」
売上の低迷が続くなか、店を継ぐことになった橋本さん。客が少ないだけに、時間だけはあり余っていた。そこで全国の鰻屋を食べ歩き、自分が「かっこいい」と思う店を真似るところから店の立て直しを図っていった。
その一つが、かつて屋台で売られていたときと同じように「仕込みをしない」ことだ。
関東風の蒲焼きは、背開きにした鰻を白焼きにして蒸したあと、タレにつけて本焼きする。腹開きにして蒸さずに焼き上げる関西風と違い、蒸すひと手間がある。そのため、オフィス街にある鰻屋のほとんどは時間のない客のために、白焼きまで済ませておくことが多い。「はし本」もかつては仕込みをしていたが、ベストな状態の鰻を提供するため、可能なかぎり仕込みをしないやり方をとっている。
「江戸前の鰻屋では、お新香をつまみながら待つというマナーが粋とされました。もともと鰻は調理に時間がかかるもの、という前提だったんです。鰻屋に行くと、うな重は一人前4000円ぐらいしますし、マグロや鯛の刺し身が食べられるわけでもありません。せっかく鰻を味わいに来たのだから、鰻本来の美味しさを楽しんでもらい、ゆっくりと贅沢な時間を過ごしてほしいと思ったんです」
確かな技術が発想を生み、人を動かす
変化は当然のことながら、軋轢を生む。経営者である父親、そして古参の調理人からも「そんなに待たせたら客が来なくなる」と猛反対を受けた。だが、橋本さんは「もとから客が少ないのだから、このスタイルでやらせてほしい」と心を鬼にして、自分のやり方を貫き通した。
そんなまっすぐな橋本さんだが、かつては「ドラ息子だった」と自らを評する。高校を卒業後、バックパッカーになってアジアやアメリカを放浪し、DJとして活動するなど自由に過ごしていた。「何やっても長続きしなくて、最終的に店しか受け皿がなかったんです」とさらりと言う。
父親に言われて渋々、店で働くことにしたものの、いきなり厨房の仕事をさせられたことに不満を抱いた。先代の父親までは経営にしか携わらず、調理をするのは板前さんの仕事だった。「もともと生きた鰻を捌くなど、血なまぐさい仕事はイヤだった」うえ、「なぜ息子の自分が厨房に入らなければならないのか」という思いが募ったのだ。だが、幼い頃から世話になっていた飲食店を経営する叔母に「いくら遊んでもいいから、仕事だけは這いつくばってでも毎朝必ず行きなさい」と言われ、それを守ったことが結果的によかったと振り返る。
「毎日行くなかで、鰻の仕込みをいろいろとさせられて。失敗しても息子だからと何度もやらせてもらえ、技術が身についたんです。技術があったからこそ、新しいことをやろうと発想できたし、人も最終的についてきてくれたんだと思います」
さらに橋本さんは、味の要であるタレにも手をつけた。関東風は、関西風にくらべ、キレのあるさらりとした辛めのタレが特徴だ。ただ、橋本さん自身は、パリッと焼いた鰻にとろみのある甘めのタレをからめた関西風の蒲焼きが好きだったため、少しだけタレを甘くすることにしたのだ。
「いきなり味を変えたとお客さんに思われないように、わからない程度にほんの少しずつ糖度を上げていきました。そうして2年かけて、甘みもあってキリッとしているという落としどころを見つけました」
メインの蒲焼きのほか、お客が必ず店で食べるお米、お吸いもの、お新香も徹底してクオリティを底上げした。そうした地道な努力が実り、「はし本」は食通の間で噂の店となっていく。だが、試行錯誤を続けてきた結果、「やればやるほど江戸前の原点に返っていく」と橋本さんは感じている。
「すべてを変えたいと思っていたときは、地に足が着いていないというか、フラットな見方ができていなかったと思います。うちはタレにしょうゆ、砂糖、みりんを使いますが、しょうゆとみりんは大手のもの、砂糖もふつうの白砂糖です。以前は調味料もすべて変えたいと思っていましたが、そこは本質的なところではないと気づいたんです」
関西風にかねてから魅力を感じ、ふわとろな関東風にはしないと鰻を蒸しすぎないようにしていた。だが、最近はふっくらと蒸し、代わりに焼きすぎる一歩手前までしっかり焼くというバランスに落ち着いた。人々が「江戸前」に求めるニュアンスを守りつつ、どこまで関西風の美味しさを自分の仕事に取り込むか。そのギリギリの境界線を探っている。
八重洲の地で人を呼べる「大衆店」を
橋本さんに改めて現代の「江戸前の鰻」について尋ねたところ、「昔ながらの手仕事を守りつつ、現代的な技術や知見も取り入れて変化しながら、この地で続けていくことかなと、いまは解釈しています」という答えが返ってきた。
コロナの影響で、真空パックの蒲焼きの通販やタクシー会社と連携した宅配サービス「うなタク」など新しい取り組みも始めた。だが、最終的には店に足を運んでほしいと語る。
「僕のなかではずっと、八重洲はわざわざ食べに来る街かという問いがあります。いまは開発が進んでいますが、新しくオフィスや商業施設ができたことで街の人口は増えるかもしれません。でも働く人も含めて八重洲にいる人とした場合、それ以外の人をはたして呼べる街になるのか。それは疑問です」
橋本さんが考える八重洲の魅力は、開発が進む一方で「はし本」がある場所のように路地があり、下町っぽさも残っているところ。
「うちのように個人経営の店同士、個と個がつながって街を回遊できるような楽しみを提供できたらと、いまは漠然と考えています」
店は今秋、老朽化のための建て替えを計画している。「小さなお店に憧れていた」という橋本さん。一時は席数を絞ることを考えていたが、「食べたいときに来て入れるお店の形態は継続したい」と考え直すに至った。
「いまは、僕が思う“大衆店”をやりたいと考えています。飲食店は、人と人とが集まる場所。コロナの影響はありますが、密な文化はなくならないと信じています。こんなご時世だからこそ、『鰻 これ くふうて やく のむな』という創業からの理念でお客さんをもてなし、またお客さんもそういう気持ちで出入りしてくれたらうれしいなと思います」
そういえば昼にうな重を食べていたとき、杖をついた高齢男性がお会計をしながら「生きてたらまた来るね」と、笑いながら店員に話すのが聞こえてきた。ここでしか食べられないものがあるから、また来たくなる。たとえ店構えが変わろうとも、ここに来ればいつでも”江戸前のいま“が味わえるのだ。
執筆:澁川祐子、撮影:島村緑