料理、書、陶芸、刻字看板、篆刻(てんこく:石・木などの印材に字を刻すること)、画、漆芸などの分野で卓越した芸術性を発揮した、稀代の芸術家・北大路魯山人。
魯山人は20歳から40歳頃まで(1903年~1923年頃)東京・京橋にて活動し、その芸術の大きな礎を築きました。京橋時代のハイライトといえるのが、自身が料理をし、古陶磁に盛り付けて供した美食倶楽部です。お客には名士が名を連ね、店の外には黒塗りの車が行列したそうです。
時は巡り、その美食倶楽部があった場所はいま、魯山人の名作を展示する古美術店・魯卿あんが軒を構えます。店内の茶室にて店主・黒田草臣さんに、魯山人の京橋時代のエピソードと、その美の本質についてうかがいました。
20歳の時、まだ見ぬ生母に会いに京橋へ
──まずは黒田さんご自身の店・魯卿あんについて、2013年に京橋で開店された経緯を教えてください。
この場所はその昔、魯山人が蒐集した古美術品を販売した大雅堂芸術店(※1919年開店、後に大雅堂美術店に改名)がありました。1921年には店の2階を客間に改装し、美食倶楽部も始まりました。
魯卿あんの前は古書画店さんが入居されていましたが、移転されることになり、場所を譲っていただきました。私はもともと渋谷で黒田陶苑という美術専門店を営み、魯山人作品も多く扱っていましたので、京橋の方を魯山人の専門店とすることにしたのです。
──魯山人にとって、京橋とはどんな場所ですか。
魯山人にとり、京橋は大変重要な場所です。京橋時代がなかったら、私たちがいま知る魯山人は生まれていなかったのではないでしょうか。魯山人は20歳の時に、生まれ育った京都から東京に上京します。上京の目的は、まだ見ぬ生母に会うことと、書家として身を立てることでした。魯山人は生後すぐ養子に出され、計5回も養父母が変わりました。そして20歳になった時に親戚から「生母は東京にいる。姓は北大路」と知らされ、会いにいくことに決めたのです。
ところがいざ会った実母には、人目をはばかるようにして冷たくあしらわれ、涙ぐんでもくれませんでした。この世の無情さや孤独さを味わったであろう彼はこれを機に、いよいよ書の道に邁進することになります。彼が移り住んだのが、親戚のいた京橋でした。以降魯山人は20年近く、京橋界隈をぐるぐると移り回ることになります。
魯山人が上京した1903年当時は、車輌の軌道上を2頭立ての馬が引っ張る鉄道馬車が、京橋・上野・浅草間を走っていました。煉瓦造りの洋館やガス灯など西洋化が進み、1919年には京橋の交差点に信号機が設置されるなど、西洋と日本の伝統文化が入り交る華やかな大正ロマンの時代でした。
街のあちこちを魯山人の刻字看板が飾る
──魯山人は京橋でどんな生活を送ったのでしょう。
まずは書道教室を始めました。魯山人の教え方は、たとえば跳ねるところはなぜ跳ねるのかをきちんと教えたりと理詰めでわかりやすく、とても評判がよかったようです。22歳の頃には書家の岡本可亭に弟子入りします。やがて師匠を凌駕するほどに評判が高まり、2年後に書道教授の看板をあげ独立。岡本可亭は漫画家・岡本一平の父で、画家・岡本太郎の祖父にあたります。
その後27歳の頃から2年間、朝鮮と中国を巡り、石碑や書、篆刻を見て回りました。帰国後は京橋南鞘町(現在の中央区京橋一・二丁目)で書道塾を開きながら、さまざまな篆刻や刻字看板の製作も請け負うようになります。以降、滋賀県の長浜や京都、福井、金沢での食客(しょっかく:君主たちが才能のある人物を客として遇して養う代わりに、主人を助けるというもの)時代を含め、木版に文字を彫刻したみごとな刻字看板を数多く残しました。京橋界隈にも乾物屋の山城屋や、フランス料理店のメイゾン鴻乃巣、出版社の実業之日本など、魯山人の手掛けた看板があちこちにあったようです。
残念ながらその多くが1923年の関東大震災で消失してしまい、いま見られるものはほとんどありません。魯山人の看板がいまなお見られるのは、銀座六丁目の割烹「中嶋」くらいでしょうか(※客席に魯山人作の「中嶋」の扁額が飾られています)。
──美食倶楽部はどのように始まりましたか。
まずは書道を教えていた子供の父親から京橋南鞘町の二階家、つまり今いるこの場所を借り受け、自らが蒐集した書画や仏教美術、陶磁器などを販売する店を始めました。それが大雅堂です。店内の柱は全て黒漆で塗り上げられました。
店をやっていると基本的に常に店にいなくてはならず、魯山人は自然と店で食事を作って食べるようになりました。そこにお客がきて、美味しそうですね、じゃあちょっと食べますか、となる。当然料理にはこだわりがあり、これはどこどこのもので、それをこんなふうに料理してと薀蓄を語る。そうするうちに、今度お金を出すので自分も食べさせてくださいという声が多くなり、美食倶楽部を開始。それが1921年、魯山人が38歳の頃でした。
魯山人自ら料理し、集めた古陶磁に盛り付け
美食倶楽部を始めるにあたり店を改装し、1階の奥には板の間の台所を作りました。その下はコンクリートで囲い、魯山人がよく料理に使ったスッポンを放した他、外には石灯籠のある生贄(いけす)を設え、鰻を放しました。
美食倶楽部のウリはなんといっても、桃山時代の織部や古瀬戸、古染付、古赤絵、オランダなどの茶碗や皿鉢類を使い、魯山人自らが包丁を握り盛り付けた料理が食べられたことです。次第に美食好きの間で大評判となり、会員には二條公爵、徳川家達、久邇宮殿下など名士ばかり90余人が名を連ねました。狭い店でありながら、外には黒塗りの車が何台も止まり、近くの交番からずいぶんと苦情を言われたそうです。
その後1923年に関東大震災が発生し、大雅堂美術店および美食倶楽部は火事で全てが灰燼(かいじん)と化し、魯山人の京橋時代が幕を下ろします。その後は芝公園にて開店した美食倶楽部「花の茶屋」を経て、赤坂に開店し、魯山人芸術が大きく花開いた星岡茶寮の時代となります。
──お父様の黒田領治さんが魯山人と親交があり、一家で魯山人が手掛ける鎌倉・星岡窯(ほしがおかがま)の一角に住まれていた関係で、黒田さんご自身も魯山人と実際にふれあわれています。どんな人物でしたか。
魯山人は私が高校2年生の暮れに亡くなりましたが、私にとっては本当に優しい人でしたね。特に力の弱い子供や動植物などに対し、優しかった印象があります。
私が子供だったある時、魯山人が大切にしていた山桜の木に登って遊んでいたところ、魯山人の履く下駄の音がカッカッカッと近づいてきたので「ああ、これは完全に怒られるな……」と覚悟しました。ところが魯山人は下から「おいおいおい」と声をかけるや、こう言ったのです。「桜は滑ったり折れたりするから、足元を確かめながら気をつけろよ」。
またある時、路地に咲いた白い山吹を、竹竿で払い落として遊んでいました。すると魯山人がまた駆け寄ってきて「おいおいおい」と声をかけました。この時も完全に怒鳴られるとビクビクしましたが、魯山人は「花だって命があるんだぞ。かわいそうだから、そういうことをしちゃいけない」と、怒るというより諭すように言われました。
「自然であること」が何よりも美しい
世間からは悪く言われることも多かった人ですが、長く付き合う中で全くいさかいが起きなかった人もいくらでもいるのです。それと魯山人おじさんといえば、いつもスケッチブックと鉛筆を持って、自然や生き物をスケッチしていた姿が印象に残っています。私が昨日も同じものを描いていたよね?と話しかけると、「おまえ、同じだと思っているのか。すすきも、すすきに来る虫も、毎日違うんだぞ」と教えられたものです。
──魯山人の芸術の本質とは、どんなところにあると思いますか?
私の考えでは無理をしない自然さ、ナチュラルであること、にあると思います。魯山人は、たとえば植木屋さんが刈り込んでビシッと整えた植木のようなものが嫌いで、あるがままの形を活かすことを大切にしました。だから手間ひまかけて寸分違わずきれいに描こうとするのではなく、眼の前のひとつのものに入魂し、時間をかけずにドドドと集中的に仕上げる。したがって同じお皿の5枚組を作るにしても、一枚ずつ入魂するから違うものになる。
魯山人はそれを心の術とも表現していますが、だからこそそこからは内面にある美意識のようなものが伝わってくるんです。おかげで飽きがこないし、丈夫なこともあり、長く愛される。それと書でも料理でもなんにせよ、人を喜ばせたい、楽しませたい、感動させたいという気持ちが常にありました。その根底には、人々に美しいものに囲まれて生きてほしいという想いがあるとも、彼は述べています。
美術館ではさまざまな巨匠の企画展が開催されますが、未だに魯山人の企画展が来館者が多いようです。魯山人は焼き物ひとつをとっても本当に多岐にわたる種類を手掛けていて、それ以外に書があり、画、篆刻、刻字看板などもある。だからお客さんを飽きさせないし、私にも未だに「こんな作品もあったのか!」ということがよくあります。
読者のみなさまにも、ぜひ魯山人の美を楽しんでいただきたいです。その際は本やインターネットもいいですが、現物の作品に直接ふれてみることをおすすめします。
魯卿あん: https://www.kurodatoen.co.jp/rokeian/
執筆:田嶋章博、撮影:鈴木智哉