〈むかしみらい〉タイムトラベルガイド
TIME TRAVEL GUIDE

|2021.01.25

第四回 美食案内(前篇) 行き先:幕末から明治の木原店

執筆:澁川祐子

再開発が進む東京駅の東側。オフィスや商業施設が建ち並ぶ八重洲、京橋、日本橋の一帯は、水運、陸運の要衝として開かれて以来、人と物が集まる最先端エリアとして発展してきた――。その歴史を駆動してきた“場”と“人”を追う時間の旅へようこそ。


明治時代に現れた日本橋の新名所

目抜き通りからちょっと脇道にそれると、そこはびっしりと両側に飲食店が並ぶ狭い路地。のんべえを誘う赤提灯から、鼻孔をくすぐる老舗の蕎麦屋や鰻屋、甘党を満足させる甘味処まで。本格的な料理を出す和食屋もあれば小洒落た洋食屋もあり、ここと決めた1軒で沈没するもよし、2軒、3軒とはしごするもよし。店の灯りがひしめく横丁は、今も昔も食いしん坊を魅了してやまない。

かつて日本橋の目と鼻の先に、そんな食いしん坊たちを吸い寄せる横丁があった。

名前は「木原店(きわらだな)」。名前の由来は、徳川家康の江戸入府後に、町割を手がけた大工頭の木原内匠が住んでいたからだという(※)。幕末の頃からぽつぽつと現れた飲食店が明治30年代頃には軒を連ねるようになり、「食傷新道(しょくしょうじんみち)」の別名でも呼ばれるようになった。ちなみに「新道」とは元来、町家の間の狭い私道を意味していた。

江戸から東京へと近代化の洗礼を受けるなか、人々はどんなところに集い、どんな料理を囲んだのだろうか。うかつに呑んだくれることができないコロナ禍の昨今、せめても時間を巻き戻し、東京の中心に生まれた食い倒れの横丁へ束の間、迷い込んでみよう。

(※)ただし寛永9年(1632)頃刊『武州豊嶋郡江戸庄図』では、三丁目西側(現在の日本橋三丁目付近)に「きはら」と記されており、木原店のある通一丁目(現在の日本橋一丁目付近)ではなく、こちらが本来の住居だった可能性もある。

明治時代の街区図によると、通一丁目東側は表通りと木原店に沿ってT字の形をしていた。

夏目漱石も通った食とエンタメの横丁

木原店と呼ばれたのは、最近まで寝具の「日本橋西川」があったビルと「コレド日本橋」とに挟まれた、わずか150m足らずの路地である。コレド日本橋のある場所はその昔、江戸時代の呉服屋から続く老舗百貨店の白木屋があった。白木屋はその後、東急百貨店に吸収され、東急百貨店日本橋店となるが、平成11年(1999)に閉店。その跡地に平成16年(2004)、オープンしたのがコレド日本橋である。

日本橋を背に中央通りを少し進み、コレド日本橋の手前を左に折れる。日本橋一丁目は現在、再開発の途上にあり、訪れてみると、日本橋西川があった一角は工事の仮囲いに覆われていた。路地はきれいに舗装され、のんべえや食いしん坊がこぞっておしかけた横丁の名残は一掃されている。だが唯一、歴史を物語るのがコレド日本橋の脇に据えられた2つの碑である。1つは「漱石名作の舞台」の碑、もう1つは「名水白木屋の井戸」の碑である。後者についてはおいおい説明するとして、まずは「漱石名作の舞台」の碑にふれよう。

左)木原店のあった路地を中央通りより望む。左が工事中の日本橋西川、右がコレド日本橋。(2020年12月撮影)
右)コレド日本橋の脇に移設された「名水白木屋の井戸」の碑(左)と「漱石名作の舞台」の碑(右)。

この碑は、夏目漱石の『三四郎』と『こころ』という代表的な2作品に「木原店」が登場することにちなんで建てられたものだ。『三四郎』では、上京したての主人公が同級生に引っ張られ、木原店にあった木原亭という寄席を訪れる。一方、『こころ』では、若き日の“先生”が奥さんとお嬢さんと連れ立って日本橋に反物を買いに行ったあと、夕飯を食べに立ち寄っている。

〈奥さんは私に対するお礼に何かご馳走するといって、木原店という寄席のある狭い横丁へ私を連れ込みました。横丁も狭いが、飯を食わせる家も狭いものでした。この辺の地理をいっこう心得ない私は、奥さんの知識に驚いたくらいです。〉

漱石が『三四郎』を朝日新聞に連載したのは明治41年(1908)、『こころ』は大正3年(1914)のこと。同時期の新聞を見てみると、はたして東京の新名所を紹介する連載で「食傷新道」が取りあげられていた。

〈日本橋木原店を云ふ、中華亭、赤行燈等を始め料理屋、鳥屋、牛肉店、天麩羅屋、すしや、汁粉屋等軒を並べ如何なる大食冠と雖(いえど)も此處一ヶ所にて食傷すべきを以て此名あり 尤も只素通した許りにては食傷の虞(おそれ)なし〉明治41年(1908)12月4日付『東京朝日新聞』

素通りすれば食傷の恐れはない、というオチは少々蛇足な気もするが、それでも種々の飲食店が狭い路地にひしめきあっていたことがうかがえる文面だ。そんな人気のスポットを漱石がいち早くおさえていたのは、両作品で名前が登場する「木原亭」という寄席があったからだろう。

木原亭は、近代落語の祖といわれる三遊亭圓朝(1839~1900)が最後の高座を務めたことでも知られる。三遊亭圓生(1900~1979)の著書『江戸散歩』によれば、〈江戸から東京以来、この木原亭というものは一流として鳴らした席〉であり、圓朝がいた時代はかなり盛況だったようだ。

漱石の落語好きは有名だが、なかでもお気に入りは三代目柳家小さん(1857~1930)だった。先の『三四郎』のくだりでも、主人公と同級生の2人は木原亭小さんの高座を見て、同級生に〈小さんは天才である〉と語らせている。漱石もまた寄席を見た帰りに、木原店のどこかの店で空腹を満たしたのだろうか。もっとも漱石は、酒に弱く甘党だったというから、甘味処でお汁粉をすすったかもしれない。いずれにしても明治後期に木原店は食あり、エンタメありの横丁として広く名を馳せるようになったのである。

嘉永2年(1849)刊『江戸切絵図』より「築地八町堀日本橋南絵図(部分)」(景山致恭ほか編、尾張屋清七版)。通一丁目東側の路地、赤丸で囲んだところに「木原店」が記されている。(提供・国立国会図書館デジタルコレクション)

江戸随一の表通りに接していた「木原店」

ではなぜ、ここに食い倒れの横丁が形成されていったのだろうか。歴史を遡ってその理由を探ってみよう。

嘉永2年(1849)に刊行された『築地八町堀日本橋南絵図』を見ると、そこにはすでに「木原店」の文字が記されている。当時の町並みを伝えるものに、江戸の名所を描いた歌川広重の『名所江戸百景』のうちの1枚、「日本橋通一丁目略図」という夏の風景を描いた絵がある。

題名の「通一丁目」の「通」は町名で、日本橋から南に伸びる東海道(現在の中央通り)を挟んだ両側に一~四丁目まであった。そのうち一丁目は日本橋交差点あたりまで。単に「通」と言うだけで、それがどこを指しているのかが通用するぐらいだから、大店が連なるこの表通りが江戸市中でどれほど特別な場所だったかがうかがい知れよう。

歌川広重『名所江戸百景』より安政5年(1858)8月の改印がある第44景「日本橋通一丁目略図」。通りに連なる表店の縦の直線と、日傘や笠の丸との対比が粋な構図。(提供・国立国会図書館デジタルコレクション)

絵には右手前に呉服屋時代の白木屋が見えることから、日本橋に向かって通りの東側を描いていることが読み取れる。一番奥の店は「や」の字が見えることから、山形屋の屋号で知られた西川甚五郎商店(のちの日本橋西川)を描いたつもりかもしれない。白木屋も西川甚五郎商店も含め、この通一丁目東側には、近江商人の蚊帳や畳表の問屋が建ち並んでいた。例外は、白木屋の先にある蕎麦屋だ。のれんには「東橋庵」、看板には「東喬庵」と書かれているが、他の資料をあわせ見るに「東橋庵」が正式な店名のようだ。その蕎麦屋の先から2人の男が出てきているが、その路地が木原店である。

道行く人は、みな強い日差しを避けるために日傘や笠を被っている。中央には住吉踊り(大阪の住吉神社に伝わる田植え踊りで、江戸時代には大道芸として花開いた)のひときわ大きな傘にすっぽりと収まっている5人の踊り手と、その後ろには三味線を抱えた女太夫。通りの脇には、振り売りのマクワウリで喉を潤す男や、蕎麦屋の出前持ちもいる。外はよほど暑いのだろうか、出前持ちは前をだらりとはだけさせたままお重を担いで歩いている。これだけさまざまな人が交錯しながら、誰一人として顔は見えないのは、洗練された都会を表象しているかのようだ。

この絵からわかるのは、木原店がいかに人通りの多い中心地に位置していたかということだ。人が集まる場所が、商いに有利なのは今も昔も変わらない。しかも日本橋を渡った東には、江戸の台所といわれた魚河岸もあった。当時は、冷蔵庫などない時代。生ものは保存がきかず、長距離輸送は難しかった。新鮮な食材が手に入るかどうかは飲食店にとって死活問題である。人通りが多く、食材の調達にも困らない。飲食街を形成するのに、まさにもってこいの立地条件が揃っていたのだ。


人通り、魚河岸、良水という好立地が生んだにぎわい

恵まれた条件に加え、あともう1つ、木原店が飲食街となった決め手があるのではないか。人通りが多く、魚河岸に近いということであれば、ほかの路地でもよかったはずである。そこで思い当たったのが、先にふれた「名水白木屋の井戸」の碑である。

左)明治34年(1901)刊『日本之名勝 3版』(史伝編纂所)より白木屋呉服店の全景。通りを馬車鉄道が走っている。
右)大正11年(1922)刊『東京市史蹟名勝天然紀念物写真帖 第1輯』より白木屋店内にあった井戸の遺構。(ともに提供・国立国会図書館デジタルコレクション)

名水と謳われた白木屋の井戸には、こんないわれがある。もともと江戸湊に面する湿地帯だったこの界隈の水は塩辛く、飲み水には向いていなかった。そこで白木屋二代目当主の大村彦太郎安全は正徳元年(1711)、敷地内で井戸を掘る工事に着手する。しかし、掘れども掘れどもなかなかよい水は湧き出ない。半ば諦めかけたあるとき、一体の観音像を掘り当てたという。大村家ではこの観音像を大切に祀り、朝に晩に参っていたところ、まもなく地底からこんこんと良水が湧いてきたという。この井戸の水は市中でも評判の名水となり、江戸城の大奥からも汲みにくるほどだったと伝えられている。

井戸の遺構は、呉服屋から百貨店へと衣替えした白木屋の1階に長らくあり、井戸から出たとされる観音像は、屋上のお堂に安置されていたという。その後、観音像は東京の浅草寺に安置され、日本橋交差点の角に石碑が建てられた。そして現在、その碑は漱石の碑と並んで木原店があった通りに移設されている。

一説には、白木屋の隣にあった蕎麦屋「東橋庵」もこの名水を使って料理されていたという。蛇口をひねればきれいな水が出てくる現代では、良水の確保の苦労など想像もつかないが、当時はいい水を使っているというだけで料理屋の信用は高まったのである。ゆえに井戸のまわりにおのずと料理屋が増えていったのもさもありなんと思う。

人通り、魚河岸、良水。その3つを結ぶ路地に次第に集まってきた飲食店。それが明治という時代の変革を受け、東京でも有数の飲食街へと発展していくことになる。後篇では、繁盛を極めた明治30年代の木原店に足を踏み入れてみることにしよう。(後篇に続く)

参考文献:
東京市日本橋区編『日本橋区史 第1冊』東京市日本橋区、1916年
復刻版『新撰東京名所図会第 28篇』国書刊行会、1973年(初版は東陽堂、1901年)
三遊亭圓生『江戸散歩〈上〉』 朝日文庫、1986年(初版は集英社、1978年)
仲田定之助『明治商売往来』ちくま学芸文庫、2003年(初版は青蛙選書、1969年)
仲田定之助『明治商売往来〈続〉』ちくま学芸文庫、2004年(初版は青蛙選書、1974年)

<執筆者プロフィール>
澁川祐子
ライター。食と工芸を中心に編集、執筆。著書に『オムライスの秘密 メロンパンの謎ー人気メニュー誕生ものがたり』(新潮文庫)、編集・構成した書籍に山本教行著『暮らしを手づくりするー鳥取・岩井窯のうつわと日々』(スタンド・ブックス)、山本彩香著『にちにいましーちょっといい明日をつくる琉球料理と沖縄の言葉』(文藝春秋)など。

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