「四季料理 いけ増」の「煮穴子入り海鮮弁当」
文/澁川祐子 撮影/宮濱祐美子
「四季料理 いけ増」は、日本橋交差点のほど近く、中央通りをちょっと曲がったところにある。エントランスの大きな階段を下りていくと、日本酒がずらりと並んだカウンター席が目に入る。
そこで、本日のお目当てである「煮穴子入り海鮮弁当」と対面する。なんてきらびやかな折詰だろう。弁当箱をゆうゆうと横切る、一本丸ごとの煮穴子。手前には、鯛やアワビ、海老、ズワイカニ、イクラという海鮮オールスターが品よく鎮座し、タケノコやサヤエンドウ、卵焼きが彩りを添える。
だが、この折詰の実力は見た目だけじゃなかった。ネタの一つひとつに丁寧な仕事がしてある。だから、ピカピカのネタが並んでいても、暑くなるこれからの時期もテイクアウトOKなのだ。
それを聞いて、「江戸前」という言葉が浮かんだ。江戸前とは、もともと江戸の前の海、すなわち江戸湾を指し、やがてそこでとれる魚介も意味するようになった。関東大震災のときまで日本橋のたもとにあった魚河岸は、まさに江戸前の魚介が水揚げされる場所。とれたての魚介が豊富にあったことが、ネタとシャリを一緒に「握る寿司」を生み出した。そして握り寿司は、木型で押して成形する関西の「箱寿司」に対し、「江戸前寿司」と呼ばれるようになった。
ただ、いくらとれたてとはいえ、当時は冷蔵庫などない時代。時間が経てば経つほど、ネタの鮮度は失われてしまう。そこで酢〆にしたり、しょうゆ漬けにしたりして、できるだけ新鮮なままおいしく食べられるようにする知恵を絞った。それが江戸前寿司の本領でもある。
江戸前の折詰。ピカピカなネタが並んだ折詰は、場所柄も手伝ってか、そんな第一印象だった。
板前がひと手間かけた料理と厳選したお酒を、手頃に味わえる「大衆割烹」
では実際にどんなふうに調理をしているのか。いけ増3代目の喜多高廣さんに解説してもらい、メモに書き留める。
煮穴子は、柔らかく煮ても骨が気にならないように「めそっ子」と呼ばれる若魚を使う。色が黒くならないように、煮すぎずふっくらと仕上げ、代わりに別添えの甘じょっぱい煮ツメをお好みで。
えびは芝煮に。ショウガをきかせただし汁で、ツヤを残すようにさっと火にかける。煮えたら鍋のなかでだし汁につけたまま冷まし、じっくり味を含ませる。鯛は昆布〆でうまみを引き出し、アワビは酒蒸しに。ズワイガニは甘酢であわせ、イクラは王道のしょうゆ漬け。タケノコは旬の時期なら新物を使い、香りと食感を生かして薄味にするなど、季節により煮かたを変えている。
手間のかかり具合を聞いているだけで、ふだん時短料理ばかりをしている私は目を剥きそうになる。だが、なぜそんなに手をかけるのかと尋ねるのは、店の来歴を伺っているうちに「聞くだけ野暮」という気になってきた。
いけ増の創業は昭和25年頃、東京の赤羽で焼き鳥屋として始まった。その後、居酒屋に形態を変え、いまから60年以上前の昭和33年に、東京駅にも近い現在の地に出店。以来、付近で働く人々の憩いの場として、酒と肴を提供し続けてきた。喜多さんは、そんな店のことを「大衆割烹」と表する。
「料理は、出来合いのものは使いません。たとえば春の若竹煮なら、生の筍を買ってきて、糠で煮るところから作ります。枝豆なら、枝つきのまま買ってきて、ここで切って茹でています」
割烹と同じように、板前がひと手間をかけた料理を出す。けれど、値段は一般の人々が来やすいようにあくまで抑えて。たしかに店内に貼られた筆で書かれた品書きを見ると、ほたるいかの酢味噌添えや谷中生姜など、いかにもお酒に合いそうな旬の肴が400円台、500円台といった価格で並んでいる。しかも、メニューは定番を除いて年に8回、13品ほど旬の料理が入れ替わるという。
料理へのこだわりは、それだけではない。「味を変えない」こともまた、いけ増が長く守ってきたことだ。
「私が店に入ったのはいまから10年ほど前になりますが、当時30年ぐらい勤めていた板長に、レシピを全部教わって、文章化しました。盛りつけなど、料理の提供の仕方は時代に合わせて少しずつ変えていますが、基本の味は変えていません。たとえば昔なら飾り包丁を入れていたものも、いまは素材そのもののよさを全面に出すように、シンプルに盛りつけています」
季節のめぐりとともに、変わらぬ旬の味を楽しめる。だからこそ、変わりの激しい都心の地で、50年来も商いを続けることができたのだろう。聞けば、この店ができてから50年、ずっと通い続けている客が数人いるという。「昔は木造の建物だったのにな」なんて言われるんです、と喜多さんは笑いながら続ける。
「長年通ってくださる方がいるということは、変わらない味を提供できているのかなと思います。そういうお客さまは、お店にとっての宝ですね」
端正な仕事に込められた味の記憶
取材から帰り、持ち帰った折詰を開く。まずは、ふっくらやわらかい穴子を箸で切って口に入れる。あっさりした穴子の味わいを引き立てる、ほんのりと甘い品のよい味つけだ。
だしを含ませた海老は、食べごたえのあるしっかりした身から甘さがずんと伝わってくる。手焼きの柔らかな玉子焼は甘すぎず、よい塩梅。丁寧に料理されたものを食べると、味わう速度も自ずとゆっくりになるものだなあと思いつつ、箸の動きは止まらない。淡い味つけのなかに、塩味をきかせたアワビや、しゃくっと歯ざわりのいいタケノコなど、味も食感も絶妙なバランスで配されて食べ飽きないものだから、止めようがないのだ。
そして驚いたのは、きらびやかなネタをしかと受け止めている白いごはんのもっちりとしたおいしさだ。「ごはんだけでおいしいように」と毎年、各地のコシヒカリを実際に食べくらべ、一番おいしいと思うものを選んでいる、と喜多さんは語っていた。また「料理屋のごはんは、柔らかめに炊くものだ」という昔からの教えをいまも守っている、とも。お弁当のごはんというと、どうしても固くパサつきがちだが、その味気なさが、このごはんには微塵も感じられない。
喜多さんが話の途中で「実は」と前置きしながら、「創業者である先代は、私の祖父なんです」と切り出したことをふと思い出す。
「祖父自身は、お店の厨房に立たなかったんですが、築地へ食材を見に行ったり、評判の店を食べ歩いたりして、メニューの開発にも熱心でした。どこかで食べて気に入った料理があれば、家で再現して僕たちにも食べさせていました」
祖父は、残念ながら喜多さんが11歳のときにはこの世を去ってしまった。だが、店の味を生み出す原点になった祖父の料理は、きっと記憶の深いところに刻まれているのだろう。
江戸の知恵と祖父の目指した味。その2つが結びついた、端正な折詰。コロナ禍の緊急事態宣言で、夜の営業を取りやめざるを得ないなか、一つの折詰が、お店とお客とをつなぎ、変わらぬ味を届けている。
<執筆者プロフィール>
澁川祐子
ライター。食と工芸を中心に編集、執筆。著書に『オムライスの秘密 メロンパンの謎ー人気メニュー誕生ものがたり』(新潮文庫)、編集・構成した書籍に山本教行著『暮らしを手づくりするー鳥取・岩井窯のうつわと日々』(スタンド・ブックス)、山本彩香著『にちにいましーちょっといい明日をつくる琉球料理と沖縄の言葉』(文藝春秋)など。